忙しさと行動

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心を亡くすと書いて忙しいと読む。

自発的な行動欲求が湧き上がるのは決まって忙しくないとき。忙しい中でも自発的な行動に走っているとしたらそれは自発的で余裕のある自分の記憶とその状態への憧れから自らの理想形を自らに無理強いしていること。その無理な行動が何らかの形でお釣り(辻褄合わせ)を要求してくる。

お釣りを無視して生きるということはストレスを抱え込むということ。

このようにしてストレスとは外的要因が直接蓄積しているのではなく、その捉え方によって自ら呼び込んでいるものなのだ。

余裕のあるときの自分ならきっとこういう行動してるはず、という思考回路には罠が潜む。本物の欲求に基づいていないということは計算違いも生じる。正確な欲求を頭でシミュレートできるほど人の頭は賢くできてない。簡単に言えば忙しさで亡くしてしまった心の代理を頭にやらせることはできないのだ。

他の事柄との調和を無視して行動すれば、必ずそのけじめを払うときがくる。

頭で考えて決断したことは欲求とは言わない。その決意が固ければ固いほど、頭の固い人間ということ。思い込みで暴走しているということ。

だからこそ、常に考えるべきだと思う。考えるというのは心を無視して頭で論理思考を積み重ねることではなく、心に従って頭を活用するということ。両者の歴然とした違いを腹落ちさせよう。

あなたやわたしが自然に生きるのか、それとも自然に生きてるふりをするだけの殻になるのか。ひとりひとりがそれに気がついていくことで、降りかかってくるストレス源も他者に与えてしまうストレス源も減っていく。

ただし、ある人にとってストレス源になることでも他の人にとってそうとは限らない。その判断は個々がするものである。従って、世の中がストレスを与えないための配慮の山になると今度はそれがストレスになってくる。

正しい指針は何かと問われれば、それは個々の自立である。あるべき論で行動して変えることができるのは自らのみ。他者を変えることはできないという大前提にどれだけ忠実に生きられるか、ここが僕自身にとって、とても重要なポイントだ。

突き詰めれば、他者に対して人ができることは何もないということがわかる。感謝することこそあれ感謝される行動というものは存在しない。ただ自分がそうしたいからするだけなのだ。それで誰かが感謝してくれるのであれば、それは逆にとてもありがたい縁のようなものだ。

人はみな、幸せを追求する権利を持っている。この言葉は遠い彼方の理想論ではなく、我々が日々、この瞬間に向き合っている人生の分岐点全てに適用すべきリアルなものだ。正義とは自らが定義する愛の実践だ。自らが信じる正義を誰が見ても美しい光り輝く正義であり続けさせるためには、信じるものを疑ってみることが必須である。

誰もが正義を持っている。ただその正義という武器を振りかざす前に、それが本当に正しいものなのかどうかについてゼロから何度でも評価し直す心構えが大切なのだ。

そうした自己評価的行動を抑制してしまうのもまた、忙しさである。心を亡くすということは、それほどに罪深い。

なくしてしまった心を取り戻せるのもまた、愛なのだ。苦しんでいる隣人を見て何を思うか。やらない理由を考えることに慣れすぎてはいないか。やりたいと思い込んでいることは本当にやりたいことなのか。自分は今どんなプレッシャーにさらされているのか。心の芯で捉えたことを行動に移す勇気を持っているか。

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