意見を求めることについて雑考

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他人に意見を求めたとき、あなたは本当に率直な意見を求めてますか?

意見を求められて誠実に正直な対応をしようとしたら「そこから?」とか「それは聞いてない」とか「聞きたくない」とか言われたり、「話が長い」と言われたり、それで手短に済ませようとすると今度は「それだけ?」と言われたりするのです。それを繰り返して行くとある時点でレッテルを貼られます。

この世には誠実な意見をきちんと聞いてくれる人と、ある程度ブレーキをかけなければならない人の2種類がいるらしいです。さて、本当にそうなのでしょうか。

たとえば僕は親、妹、弟の事をそれぞれ違ったところで心から尊敬もしているし、もっともっと分かり合いたいと思ってますが、家族のそれぞれは聞きたくない事があるらしく、それについて触れると耳が悪くなるようです。

ときに私という1つの視点から見えている事を率直に述べるという行為が人を傷つける事がありますが、なぜこのような事が起きるかというと言葉を受け止める側の人がその言葉の真理に触れたくないからです。僕は誰かをコントロールするために恣意的に意見を曲げたりしていないのです。本当に心から正直に思う事をなかなか他人に伝えにくいというのは、やはり受け止める側に問題があるように見えてしまうのです。

この手の会話では何か曲げられない事実でも存在してて、それに対する同意を求めてなされるものなのでしょうか?

最近ある事がヒントになり、コレはもしかしたら現代日本、あるいは東京の独自文化なのかもしれないと思いました。率直な意見を忌避せずに素直に受け止めてくれる人の割合は地域性と関連しているように思えるのです。腹を割って言いにくい事を言ったとき「言ってくれてサンキュー」となる文化と「なんだこいつ」となる文化。さてどちらの方が皆さんにはしっくりくるでしょうか。

文化における習慣はそれを形成するひとりひとりの中のコモンセンス:「常識」の暗黙の形成がベースになっていますが、拠り所となる共通項の少ない東京においては日本人の奥ゆかしさが逆に様々な思い込みや間違った解釈を堂々とルール化させてしまいがちです。思いやりと思い込みの境界線はとてもシビアであるのに、思いやったつもりが結果的に誰も幸せにならないという結果を生むような事に日々遭遇するのです。

僕はこんなに生きにくい国はもう飛び出してどこか違う国に行こうかなと思う事がよくありました。しかし全ての答えを持たない僕にとってそれこそが勝手な思い込みである可能性は高く、悪意のない冷たさについてもっとたくさん経験したり考えたりするようにしよう、と思いました。こう思ったのは僕が20代の頃の話です。

皮肉にも当時学んでいたのは比較文化学。クソつまらない授業の数々に人生の貴重な時間を食い潰されてる気がして、2年も経たないうちに辞めてしまいましたけど。当時の学長がちょうど比較文化学の権威でして、彼の書いた本を買って読めとか言われたので読みましたよ。それでより思いを強くしたのが、人間の行動原理的なものを一般化して脳内で比較文化するなんて全く価値のない行為だってことです。なぜならあらゆる人間に共通した行動原理なんてもの、定義できますかね?って事です。あなたの常識は他人の常識ではない可能性の方が高いって事です。

数多くの異文化に触れていると、そんな末節的なことよりも、はるかに大きな共通項が見えてきます。それが見えてこない人がもし多いのだとしたらその原因は感情の未分化だったりバイアスに気づいてなかったり客観視が足りなかったり錯覚だったりする可能性が高いのです。

否定が出てくるということは自分の内なる弱さをさらけ出す行為です。否定というものは伝える側がどう思っているかは全く問題ではなく受け止める側がそう受け止めてるだけです。伝える側の恣意は考慮しても無駄という事を言いたいのですが、こういう話ってなかなか他人とできないですよね。これが出来る、あるいは許される事が前提の文化が育成されて行かない限り、率直な意見を述べる事で伝える側も受け取る側も傷つく構図は解決できません。

耳が痛い事を聞かされてもそれが直接原因となって死ぬことはまずないでしょう。それなのに人は何故それを恐れるのか?この答えは結局のところ自分の整合性の問題に行き着きます。人は基本的にバカですが、間抜けではありません。辻褄の合わないことを飲み込むようなタフさを持ち合わせている人間など存在しないわけで、それを筋肉やカラオケやお酒やタバコやその他もろもろの刹那的なものにすがって忘れようとしたって絶対に忘れないし、必ずツケが回ってくるということです。だったら単純な話で、きちんと聞くことが最短でいちばんシンプルな解決策だとは思いませんか。

受け止める準備がないのに意見を求めているというのは結局のところ依存になるわけです。依存してはいけないということではなくて、それを意識できているかどうかがポイントだと思うのです。

思いがけない一言から新しい視野が開けたりすることは会話の楽しい一面ではないですか?

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