縁の美学

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「これも何かの縁だから」

縁(えん)を理由に行動する人を「お人好し」と言う人もいます。お人好しという言葉には、どうやら負のイメージを関連付けている方が多いようですね。人が好きだからお人好し。もちろんそういう方もいらっしゃるでしょう。ところが「縁」というもののフタを開けてみると、実は対象は「人」だけではないように思うのです。

「情けは人のためならず」

この言葉の解釈は人それぞれでしょう。私は何が正しいとか何が間違いとか決められるほど偉い人間ではありません。「情けを人にかけるのは、その人のためになりませんよ」という理解もありましょう。「情けを人にかけるのは、巡り巡って自分のためになるからですよ」という解釈でもかまいません。私はこの言葉について、次のように思っています。

「人が選択に迷ったとき、損得よりも情けを優先して動くことが、結果として自分にとっても相手にとっても、その時点で見えている・見えていないにかかわらず第三者にとっても役立つ結果を生みますよ」

人はなぜ損得で動くことがあるのか。損得とは何でしょうか?
損得の基準でいちばんわかりやすいのが、お金ですね。経済的な豊かさ。損得で動くよりも、縁で動くほうがハッピーな結果を生むというのが私の行動理念にあるわけですが、若い頃は損得で動いて痛い思いもかなりしてきました。

ここで皆さんに問いたいのですが、我々の脳は損得を勘定できるほど頭がいいのでしょうか?突き詰めて言えば、未来のことは誰にも正確に予測できません。スパコンを使っても明日の天気予報すら外れることがあります。未来予測というものは、その拠り所によっていくらでも変化します。これは、予測モデル、統計、ヤマカン、などなど、どれをとっても適用可能な真理ではないでしょうか。

損得勘定の「得」というものは、ごくごく限られた脳内の課題を解決できる「可能性が高い」というだけのことです。そしてそれは多くの場合「カネ」になります。つまりあなたは「カネが減るより増えるほう」という考え方に囚われていて、他の様々な条件が無視されてしまう。それによって、もともとカネ的に得をするかどうかも「不完全な予測」であるのに、その損得勘定に依って決断をしてしまうことで、期待しない結果を生んでしまう可能性を自ら高めてしまう。

私は上記のような小難しいことを常々考えながら行動しているわけではありません。ただ、シンプルに「縁に逆らわずに行動するとうまく調和した結果を生むことが多いのはなぜか?」ということを事後分析して関連付けてきた結果としてこのような思いが出てきたというだけです。

縁はコントロールできない

来る人を拒むこと、去る人を追うこと。人の感情のなかでもとくに「感情に起因する思い込みの増幅」によって人は、本来の縁を否定したり、縁がないものに縁があると思い込みたがったりします。その原因は自らの欲望(エゴ)にあるわけですが、欲望と希望の違いが見えていない人こそ間違えてしまうわけです。

でも結果として、縁ある相手はどんなに時間が経ってもまた縁が戻ってくる。縁なき相手はどんなにしがみついても去っていく。

縁がなかったと思い距離を置いてしまった相手も、縁をきちんと適切に扱ってやれば、道が拓ける。

縁に従うことで苦しみがあるのだとすれば、その苦しみは自らの内なる業火です。エゴを支える依存であります。依存を支える恐怖であります。

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