食欲と食文化

この記事は約3分で読めます。

今晩のごはんは何を食べようかな?
何を食べるのも自由だが、毎日何を食べるか悩む人もいれば、何も考えずに好きなものだけ食べる人もいる。家庭料理の質も人それぞれだし、外食ばかりの人もいる。コンビニの弁当やおにぎりは毎日売れまくり、ファミレスをはじめレストランの看板は夜遅くまで灯っている。

あなたが何を食べるのか決めるのはあなたかもしれないし、あなたの親、配偶者などの食事提供者かもしれない。

食は必要だから食すのか、それとも食べたいから食すのか。この答えはひとつではない。時と場合によって異なる。

「せっかくなので、おいしいものを食べよう!」
これは「ごちそう」というものである。ごちそうは、毎日食べるものではない。

「ごちそう」ではない、日々の食生活。そこで人にとって本当に必要なものは何なのか?
まずは必要なものと欲しいものの違いの認識から。そして必要なものは人によって異なることへの理解。さらに、多くの人にとって共通の必要なものの理解。

「焼肉が食べたい!」「野菜が食べたい!」「コロッケが食べたい!」
そう思ったときのあなたは、一体それをどうして思ったのか。

「今日は食欲ないけど、明日のために食べなきゃ」
本当にそれは適切な選択なのだろうか。

世の中にあふれかえる飲食店が提供するものの品質、考え方、それはお店により様々である。
健康食ブームの中、健康を謳うお店が増えているが、それを月に1回、週に1回という間隔で食べたところで健康になれるというのか。
ひとつのお店が出すメニューだけですべてのバランスをうまくとれるのか。
お店はあなたが昨日何を食べたかなど知る由もない。
すべての健康管理、食事管理はほとんど、あなたやあなたに日々の食事を提供する人にかかっている。

欲しているもの。それは、身体が必要としていることによるものなのか、それとも依存ビジネスの洗脳によるものなのか、そこをはっきりとさせることができないままに「食べたいものを食べるのが一番よい」などと乱暴に一括りにしてしまうと、それは食欲にコントロールされている自分を抑制できないことへの言い訳にしかならない。

食べたいものを食べるのは個人の自由である。あとは自分が何を信じるかが大切になってくる。
信じることと信じたいことの違いについて考えたことはあるだろうか。確信と思い込みの違いについて。

たとえば「野菜は身体に良い」という情報を得たとき、それが事実なのか事実でないのかを確認することは不可能だ。

野菜が身体に良い理由を様々な理由で挙げたところで、「ふーん」である。栄養素、代謝、食の歴史など、調べれば調べるほどに様々な情報が得られる。ところがそれらの情報は単なる「知識」にしかならない。体験が伴っていないわけだから、結局のところ自分が一番信じやすいものを信じてしまう人が後を絶たない。

これがプロパガンダや洗脳に付け込まれる隙となるのだ。頭で考えて導き出した論理を確信の材料として信奉している人ほど、この罠にハマりやすい。

たとえば栄養素Aが身体に良い理由を突き詰めて調べたとしよう。あなたはどこまで調べるのか?
その栄養素が身体に良いと、偉い人や信用できる人が言ってた・書いてた。それだけで信じることもできる。
裏付けとなる論文を読んでみようとする人はどれくらいいるのか?
生化学的なプロセスを自分で追ってみようとする人は、さらに少ないだろう。
仮説の証明のためにとられている条件の落とし穴の存在には、どれほどの人が気付いているのか。

こうして陥る思考の罠に対抗するための最高の方法は、経験則の蓄積を参考にすることだ。それを人は、文化ということもある。
経験則の蓄積とはつまり、ベストプラクティス集である。

日本の食文化、日本の食のベストプラクティスは何を述べているか?

我々の現代食生活においてベストプラクティスを無視したものは何か?

コメント