腐敗との戦い方

この記事は約4分で読めます。

銚子で大量に買ってきた玉ねぎと人参を活用すべく、大鍋で野菜たっぷりの味噌汁を、中鍋で人参のグラッセを作った。とても美味しくできたのだが、どちらも冷蔵庫に入れずに置いておいたら24時間もしないうちに表面に白カビが生えてきてしまった。
そういえば先週作ったカレーも同じようにカビで駄目にした。
さらに、人参の入ったビニール袋はそのままにしていたら袋の内側が水滴だらけになり、何本か緑カビの犠牲にしてしまった。急いで袋から全部出して綺麗に洗って乾燥させた。

食材を無駄にしたときの罪悪感はなんとも言えない。胸に来る。

世の中の流れとは一体何なのだろうか。わたしはいま明らかに、これまでに慣れ親しんできた世の中の流れのようなものから外れている。それは反社会的にも感じられる。若い頃人生を見失っていたとき、平日朝の駅前で仕事に向かう人々の流れに逆らって歩いたときにも感じた。あのときは自分がひとりだけ人間として当然の活動に参加していないような孤立した気持ちになって苦しかった。20代〜30代の頃、職を失ったときにも似たような経験をした。おそらくこれは、大きな経済活動の流れに参加していないことや、人と人が助け合う社会に参加していないことへの罪悪感のようなものだ。

今こうしてまた自ら世の中の流れから外れてみて感じるのは、明日を生きるお金に対する不安が根強く自分の中にあること。それ以外に社会的活動に参加していない不安があるかというと、それは無くなっていた。近所のカフェで働く人々。自営業の親類。自由業の友人。社会の流れから外れたはずなのに、会社のレールから外れている現在のほうが人と会うことでスケジュールが一杯なのだ。そしてそれは仕事の予定でカレンダーが埋まるときに感じるような苦しさは一切なく、毎日誰かに会える期待と新しい何かが起きる期待で一杯なのだ。唯一最大の不安は、金である。自分がいちばん得意としてきたスキルを会社で換金していたわたしにとって、会社から離れて生きるということは経済的な問題を抱えることにつながる。

毎日いろんなことを考えて生きている。自分の心が抱える問題とその解決策について。自分がやりたいことについて。会いたいと思う人について。興味があることについて。日々、様々なワクワクする課題にあふれかえる。ヒントは生活の中にたくさんある。そしてこうしたことは、会社で働いているとすべて気付かずに時間だけ消費していってしまうものだと強く感じる。なぜか?

会社の業務が嫌いだからではない。最大の理由は、仕事があまりにも忙しすぎることだ。目まぐるしく加速した経済社会の波に飲み込まれずにうまく流れに乗ることはほぼ不可能に近い。波に飲まれることはそう難しくないし、波に飲まれながらそれなりの成果を出すこともそんなに難しいものではない。なぜなら会社という囲まれた組織のビジネス中に現れる課題・問題といったものは、既に処理可能なようにお膳立てされた難易度の低いものばかりだからだ。

本当の問題は、組織自身の根源的な健全性の維持にある。が、こうした問題に対するプロ集団として「経営陣」というものが既にあるわけだから、わたしのような下っ端の出る幕ではないと常に叩き落される。それはもう何度も実際に経験しているので妄想ではない。会社組織に従業員として所属するということは、あらゆる意味で歯車に徹することができるかどうかがポイントだ。より高級な歯車になることはできても、歯車全体の構成を考えたりイノベーションするためには歯車でいることはとても非効率なのである。そういうことがしたいならコンサルティング業に移ったほうがはるかにマシであるが、今度は現場との距離感のジレンマに陥ることになる。どちらの現場も見てきた立場だから言える。こうなると課題解決のフォーカスは、組織構成員ひとりひとりのアイデンティティの問題になってくる。そこで企業は安易にトレーニング・教育・コーチングといった言葉に縋り付くのであるけれど、そのような依存的プロセスが何も解決を生まないことは目に見えている。文化は人間ひとりひとりの関係性の中に自然発生するのだ。その前提に太刀打ちしようとすると、人間的に様々な問題を抱えて生きていくことを覚悟する必要がある。

主体性をもつこと。主体性とはただ単純に自分が発起人となって動くことを指すのではない。主体性を深めるためには自己の内観を深め、さらに外界とのつながりについて複眼的な視点をもつことが必須となる。当然このようなことは一朝一夕で身につくはずがない。こうした能力を高めていくことが歓びにつながり、さらには世の中の理解につながり、そして関わった人々や自分自身への幸せをもたらす結果になるということについて、人はもっとよく考えるための余裕が必要だし、世の中から聞こえてくる悲鳴の数々はその余裕への渇望だと常々感じている。

感じることをやめた日には、様々なものが盲点となり自分のすぐそばを通り過ぎていく。

考えることをやめた日には、次にやってくるヒントを感じる土台が作られずに腐敗していく。

自分の中に自分の理想像を作ることはあまりお勧めしない。より多くの人が、胸に手を当てて自分の理想像がどれだけ非論理的で無意識に従わせる強制力を持っているか感じてみるための時間を作ってみたらいいと思う。

腐敗と戦う最良の方法は、腐敗と戦わないことなのだ。

コメント