笑みの価値

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お金の貯蓄はないけど、逆にお金以外のすべての貯蓄は一生かけても使い切れないくらいあると気づいた。

僕が知りたいのは世の中の仕組み。人とは何か。生き物とは何か。物質とは何か。心とは何か。世界とは何か。宇宙とは何か。解けない疑問の山の中でどこか見えない場所にあると信じてた答えは全て、自分の中にも外にもあったし、常に見えていたのに認識できていないだけだった。

人は皆、自分を認めるところからスタートする。そして次に、狭い世界を愛する。さらに広げていくと、世界の仕組みがとてもシンプルかつ美しいものであると気づく。世界を難しく捉えてるのは捉えてる人が勝手に作り出した幻だ。

暗闇の中、光明を探し求める時代はもう終わった。我々はいま、祝福された光り輝く時代の中にいる。そしてそれは永遠に続くのだ。

小手先の頭の良さなど大して気にかけるものでもない。僕は愚直と言われようと不器用と言われようと、自分の選んだ道こそが全てに調和した最善であると信じて疑わないし、いつかそれが証明される日が来ると信じてる。そしてその日こそが、使い切れないほどの貯蓄を分け与えていく日なのだ。それはもう始まっている。

かつて僕はノスタルジーにハマった。今はもう真夏の雨でも孤独な冬の夜も全てが愛おしい存在としか感じられない。愛する者が限られていた時代は幕を閉じ、全てのものを愛する事を自分に赦した。

愛を限定するほど愛に反したものもないと思う。愛という言葉にトリックがある。愛とは何かを他の言葉で表わすとすればそれは、感謝・尊敬・謙譲・調和・完全・誠実・情・仁義・許容・自由・介助・友好など、無数に広がりをもつ。

「考えない」ことについて。二つの「考えない」がある。

ひとつは、向き合うことで楽になるはずの、心の中に抱えてしまっている事に、恐怖で向き合わないこと。内面を見つめないこと。その場の都合しか考えずに調和していない結論に執着し、それ以上考えようとしない事。これをエゴとか煩悩とか呼んだりもする。

もうひとつは、無意識も意識もまっすぐに受け入れ、「わざわざ考える事」によってせっかく直観から得られたものの純粋性を傷付けてしまうことを良しとしないこと。これを悟りや達観と呼んだりもする。

「エゴと呼ばれてもいいからこうしたい」と思うのならば、そうしてみるもいい。しかしエゴが何よりも罪なのは、人を傷つけたり、自分自身を傷つけたりする要素を含んでいることだ。単にそれが見えてないからベストだと思い込んでいる。傷つけることは傷つくことにつながり、その傷の深さを見るのが怖いあまりにまた過ちを犯す。

特に今の時代はお金に縛られた考え方が蔓延している。調和のとれた仮説を立てたり、エゴのループから解放されるための方法を見つけたり、ドグマから抜け出すためにはどうすれば良いか?

簡単である。スカッと抜けるような笑いが出来るか出来ないか。笑えないオプションは選択しない。

笑いとはすなわちワクワクである。ニコニコ微笑むだけじゃ足りない。ゲラゲラ笑える事を選ぼう。

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