秋晴れ

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 誰かに説明されるまでもなく、意識を集中させることもなく、ただそこにある秋晴れを隅々まで理解して美しさを感じることができた。それが今は、ほらこんなに青が澄み渡って空が気持ち良く高く広がっていてこの汚れた町を爽やかに見下ろしているよ、と心の中で呟かないことには秋晴れを感じて自分の中に落ち着かせることが出来ないでいる。

 いったい僕は今まで生きてきた間にどれくらいの秋晴れを無視してきたのだろう。それは秋晴れのたびに、そこにあったというのに。

 美しいものはいつもそこにあって、僕はそれをたくさん受け止められずにただ通り過ぎていく。これは非常に悲しいことだ、と思う。なぜなら僕は、人は高みに上ることだけでは満足できない生き物だと思うからだ。高みに上りたいということは自己を磨きたいということで、それは自分が変わりたいということだが、いくら変わったところで自分は自分のままだし、自分にはない美しいものは決して自分のものにすることができない。

 だからこそ美しいものを見たり聞いたり感じたりすることは自分にとって最高の刺激で、感動を与えてくれる大切なものだ。

 そんな美しいものをたくさん見逃してしまうのは、決まって僕が毎日のやることリストに追われているときや、何かにプレッシャーを感じて焦りながら日々を消費しているときだ。僕は働くのが嫌いじゃないし、働くことで誰かが喜んでくれることがとても嬉しいから手を抜くことはしないし、それによって得られる報酬である程度の好きなことができるし欲しいものが買える。

 しかしたまに立ち止まって秋晴れのような美しいものを見てしまうと、ただそこに立ち尽くし、美しさと清々しさに打たれながら、いったい自分はどこへ向かっているんだ、本当の自分は何を求めているんだ、自分の人生にとっていまの仕事は達成感のほかに何を与えてくれているんだろう、と考えてしまうことがある。

 秋晴れの清々しさとは裏腹に、今の僕は自分の中に鬱々としたものしか感じることができない。一所懸命働いて、誰も裏切らず、正直に生きていても、自分はどうしてこんなに弱って傷ついてしまうんだろうと考える。誰も僕を弱らせたり傷つけたりするために何かをしているわけでもないのに、僕は勝手に弱り果てている。

 この年になって僕はやっと、心というものが実は箱根のガラスの森で見たベネチアングラスのように薄くて繊細で壊れやすいものだということに気付きつつある。自分を酷使することはとても不幸だと思う。それは僕自身の不幸ということだけではなく、僕にかかわる様々な人や物にとっても不幸だということだ。

 こうして僕は秋晴れを見上げながら勝手な物思いに耽ったが、やがて視線を戻すと、また日々の生活へと戻っていく。僕にとって美しい秋晴れは、まだ手の届かないところにあるものなのだ。いつか手の届く場所にいくことができるのかどうかは、わからないけれど。

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