やっぱり生きるという決断

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自分のことだけを考えていられるというなら、正直、病気の治療に専念すべきだという気がする。
精神状態がおかしいというか、心が変な位置にあるというような感覚、違和感あります。
そういう違和感って、「精神異常者」とは違うのだろうけど、あんまり人に見せたくない。
だから、普通を装ってみたり、一人でなにかしたりする。そういうとき。
でもやっぱり、普通じゃないですね。はっきりと自覚しました、いま。
しかし、どうしても心配は経済的なところになります。
いくら傷病者の補助金が出る(かもしれない)からといって、休職してしまったら給料ゼロです。
生きて行けません。
これは、ずしーーーーっと、重く僕の上にのしかかってきます。
なんて、こういうことは、弱音っていうんですよね。自分で決めた人生に文句を言うなんて最悪。
こうした経験は、将来物事を決定する上でものすごい影響するでしょうね。
人間いつどこで、こういった予想外の出来事に出会うかわかったものじゃないので。
でも、それに対処する図太さ、これ重要です。
失うものは失えばいい。ゼロになったって、身体があればなんとでもなる、って思っている自分もいる。
けれど、目に見えないややこしい病気ひとつで、そこまで開き直れるほど強くない。
僕は若い頃、家を飛び出して一人で暮らしていた時間が長かったので、一時は自分は乞食じゃないかと疑うくらい酷い生活したりして、「家庭」とか「自分の家」というものに対して、強い憧れや執着心があると思います。べつに、ボロボロの安アパートでもいいんだけど。
そういうものが奪われると、どんなに大変なことか。しかも今は家内と犬4匹もいます。
だから死守するのです。それしかない。
とはいえ、働きながら、今の環境や状況で、病気が治るのか、とても疑問です。
どこに突破口があるのでしょうか。ぐるぐると、終わりの無い考えが回り続けます。
死ぬということが仮に、眠ったまま目を覚まさないということと同義であるとしたら、僕はそろそろ死ぬべき時がきたのだと思ってしまうことがあります。
うーん、歯に衣着せずに書いてしまいます。誰かに、助けてほしい。
だれもいないんです、そういう人。
べつに、援助してほしいって言ってるわけじゃない。誰かに聞いてほしい。
そして、アドバイスしてほしい。だって、自分では答えが出ないんです。なにも。
毎日の生活が、過去にやってきたことの記憶から掘り出したものに律されて生活しています。
幸いなことに僕は好奇心のあるほうだったので、過去の繰り返しをしていてもいろんなパターンを知っている。でも、実は新しいことはなにもしていない。できない。
行き詰まりというやつです。僕はどうして、こんなに大きな心の叫びを、平気そうな顔をして無視できるようになってしまったのでしょうか。過去にいろんな嘘をついてきた罰でしょうか。

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