生きることについて考えていること

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誰でも一度は、死について考えたことがあると思う。
僕自身、健康な状態で「死にたい」と思ったことこそないけれど、「死にそう」と思ったことは何度かあるので、死ぬということはどういうことなのか、考えてみたことは何度もある。
希死念慮という言葉がある。
一般には聞きなれない言葉だと思う。
理由も無く死になくなるということだ。
これは、うつ病などの精神的な疾患が原因で起きる。
そう書いてあるし、そう信じたい。
理由も無く、生きていることがつらくなる。
呼吸をして、時を刻むその一瞬一瞬が、苦痛になる。
唯一の逃げ道は、死しかない。
この気持ち、たぶん健康な人には理解できないだろう。
いい例えがある。
あなたは今、うつ病を患っていると仮定しよう。
希死念慮がいったいどういうものか説明する。
うつ病で希死念慮のあるあなたにとって、人生は海中で泳ぐことだ。
あなたは今、海の底にいる。
息が苦しい。
どうしてこんな苦しい思いをしてまで、海中にいるのか、理由を説明できない。
これが人生だから。それが、唯一の答えだ。
楽になる方法がふたつあることを、あなたは知っている。
ひとつは、水面に顔を出して、ひと呼吸してから、また潜ってくること。
もうひとつは、苦しいままに溺死してしまうことだ。
海は大荒れで、水面に顔を出して息継ぎをするのも大変だ。
あなたは、何かがおかしいと思う。
健康だったあのころには、意識せずとも息継ぎできるくらい、楽だったはずなのに。
少なくとも、いま泳いでいるのは、あの先に見えている岸辺に向かっていると信じているからこそ、泳いでいられる。
あそこにたどり着けば、楽になるはずだと思えた。
うつ病になると、岸辺なんてみえない。
180度見回しても、見えるのは大海原だけ。
あなたは絶望するだろう。
何度息継ぎを繰り返しても、どこにもたどり着かないと思う。
息継ぎも、思うようにできない。どうしてだか、わからない。
おまけに体力も尽きてきた。
ここで四肢の力を抜いて、もがくことをやめてしまったら、どうだろうと考える。
どこにもたどり着かないのなら、今ここで沈んでしまっても同じだと思う。
逆に、そのほうが楽なんじゃないかと思う。
それが、うつ病の死だ。
一方、うつ病とは関係なく、死を希望するというのはどういうことなのか。
以前の僕にはまったく理解できなかった。
リストラされて自殺するサラリーマン。
会社の不祥事がもとで自殺するサラリーマン。
人生に絶望して自殺する子供たち、大人たち。
どうして?どうして死を選ぶ?
生きていればいいじゃないか。死んでしまったら元も子もない。
違うのだ。
生きるということは、どういうことなのかを突き詰めて考えない限り、死を選ぶ人たちの気持ちを理解することは絶対にできない。
私たちはなんのために生きているのでしょうか。
死なないため?
家族を悲しませないため?
家族を養っていくため?
社会に貢献するため?
自己満足のため?
欲求を満たすため?
よくわからない?
死ぬのが怖いから?
惰性?
生きることとは、死ぬこととみつけたり。
と、誰かが言った。
この世に生を受けたその瞬間から、あなたの人生は、死に向かって時を刻む。
人は、死ぬために生きるのだ。
ではなぜ、この世に生を受けるのか。
死とは、ほんとうに恐ろしいものなのか。
死の先には、なにもないのか。
死とは、肉体の滅び、生命の終焉、機能停止である。
わたしたちのココロは、どうなるのか。
科学的にいえば、僕らは死んだその瞬間からすべての活動を停止する。
全てをつかさどる脳の活動も停止し、化学的に張り巡らされたネットワークもすべて沈黙する。
記憶はすべて失われ、経験、知識、すべて無に帰する。
そんな我々が残せる唯一のものは、遺伝子。
遺伝子の解析は終わったけれど、遺伝子にどのような情報が入っているかは、いまだ謎だ。
あなたの生物学的特長も遺伝子に書き込まれている。
それらは、子孫へと伝達する。
マクロな視点でみれば、それが生命の存続ということになる。
人類全体を生命体として捉えれば、これが不死への唯一の道。
そこからはみ出した僕たちは、デッドエンドなのだろうか。
ところで、個人的に人生を見たら、子孫が残せるかどうかはたいした問題ではない。
自分はどうせ死に行くのだから。
生きる意味について考えよう。
生きるということは、影響を与え合うことではないか。
あなたがもしそこに居ても居なくても何も変わりないのだとしたら、生きている意味が本当にわからなくなる。
結局、健康であろうとなかろうと、自ら死を選ぶ人に共通なのは、
泳いでいても岸辺が見えないことにある。
一緒に泳いで励ましあう仲間もいないことにある。
人によっては、ひとりで泳ぐのも大変な状況にあるのに、変に重い荷物を背負ったまま泳いでいる人もいる。
その荷物を捨てたら楽になるかもしれないのだが、荷物と自分の命をうまく天秤にかけられない。
それでも人は、力尽きるまで泳げと鼓舞する。
みんな力いっぱい泳いでいるんだ。お前だけ辛いわけじゃないんだと。
辛い泳ぎの中には、もちろん楽しいことだってある、それが人生。わかってる。
でも、絶望した人々にはそんなもの見えない。
あるのは暗く深い海面、それだけだ。
人が生きることをあきらめないためには、自分自身「以外」の理由が必要だ。
たとえば、背負っているものが何か。
あなたが背負っているものは、あなたが泳ぎ続けてでも維持する価値のあるものか。
それだ。
なにを背負って生きていくかで、人生は決まる。
あなたは、あなたの価値観で、あなたの欲望のままに生きることもできる。
しかしそんなものは、荒波にもまれたときに、手放さずに背負い続ける価値があるか?
その背負ったもののために死ぬ覚悟はあるか?
自分が死んででも、背負ったものだけは救ってやりたいという気持ちがあるか?
それが、社会に対する貢献であり、自分の存在価値であり、家族への貢献であり、すべての努力によって獲得した経験を生かす意味である。

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