何かに立ち向かっている

うつ病に立ち向かう
うつ病だと医師にはじめて診断されたのは、2006年。つい最近のことだ。
――実際にうつ病なのかどうかはともかく、精神的な症状が出ているのは確かだ。
ここでは、うつ病ということにしておこう。

以前から同様の症状に悩まされてきた。
今ではそれが病気からくるものだという確信がある。
その確信の根拠は、自覚症状にある。
明らかに正常な状態ではないと自覚できるほどに症状が悪くなったからだ。

うつ病をはじめ、様々な心や脳の疾患に言えることは、その基準は明確ではないということだ。
たとえばガンであれば、ガン細胞が体内にあるから、ガンの人と健康な人の境界線ははっきりしている。
うつ病はそうではない。
ここから先がうつ病で、ここまで健康、という明確なボーダーラインが存在しない。
僕はかなり以前から、そのボーダーラインを彷徨っていたのだと思う。
それから、うつ病という病気に対する自分の知識の無さと偏見もあった。
自分がうつ病であるはずがないと決め付けていた。
何年も前に友人に、「おまえうつ病じゃないのか。一度医者に観てもらったらどうだ」と言われたことがある。
そのときはかなり落ち込んだ状態にあったが、そんなわけはないと思っていたものだ。

小学生の頃、不登校になったことがある。
医師には「自律神経失調症」と言われた。
仮病の医学用語だ。
しかしこれは、うつ病の始まりだったのではないか。
覚えていることを少しずつ、出来る限り丁寧にさかのぼっていくと、だいぶ昔から僕の気性や気分の変化は激しく上下していた。
調子の良いときは何でもできるような万能感にあふれ、調子が悪いときは、どん底に陥り、誰とも話をしたくない、ただ何もできない、そんな状態になるのだ。
……あるいは、躁うつ病なのかもしれない。

僕が世の中に取り残されている感じがしていたのは、忘れもしない、アイルトン・セナが死んだあの年。
頑張らなきゃいけない時なのに、力が出ない。
両親には、怠け癖が出たと失望され、友人には付き合いが悪いと言われ、自分でも、なんて俺はダメな人間だと思ってた。

病名がなんであれ、いまのこの状態で生きていくことは、非常に大きな苦痛を伴う。
いままで35年間生きてきて、痛いほどそれを感じている。

どうして周囲の人たちは簡単にこれができるんだろう。
どうして同じことをやっているのに自分だけこんなに苦しいんだろう。
どうしてみんな笑顔なんだろう。
どうして。

いまの自分の中で、自浄作用が働いているのかどうかは知らないが、
こうなった原因として考えられる過去の様々な出来事が、紐解かれようとしている。
内面を無視して、臭いものにフタをしながら人生と付き合っていくことをやめたのだ。
それは進んで行っているものではない。もう、振り返って整理せずには前に進めない体なのだと思う。
ぐちゃぐちゃに絡まった糸をほぐし、鍵をかけてしまった引き出しを、勇気を出して開ける行為だ。
そして気づいたこと。
あまりにも多くの引き出しに鍵がかかっている。
しかもそのうちの少なくない鍵が、開けられない。
そして重要なこと。
空白の時間がある。

思い出したくないことを思い出すのは、とてもつらい。
僕は自分の過去を思い出したいと、治りたい一心から考えているが、
自分の心のどこかは、それを猛烈に拒む。
とてもつらい。きつい。そこには触れたくない。
引き出しの中に何が入っているのか知らないけど、開けたらいけないと自分の中の誰かが叫ぶ。

結局、自分がどれだけ不完全な記憶をベースに生きているかということが明らかになってきた。人はみな記憶を美化したり都合の悪いことを忘れたりして生きているものだ。それが、自衛本能のようなものだと思う。しかし自分の場合、欠落した情報や、断片化した記憶が、うまく順序だてて繋げられないことが多すぎた。

この時点で、自分の何かがおかしいということは理解できた。
このブログにも過去のことをたくさん書いているが、その順番が間違っていることもたくさんある。

どうしても開かなかった引き出しが、開いたものもあった。
そこには、身の毛もよだつような記憶が、ヘドロのように溜まっていた。
どうやら僕は、誰かを嫌いになりたくないときに、その人の悪い記憶を消し去る習性があるらしい。
その誰かとは、他人のこともあるが、自分のことも多い。
正直、自分を取り戻すという行為は、自分の一番見たくない部分を見つめなければいけない作業だ。だからこそ、今やらねばならないのかもしれない。

僕はずっと、「人とのめぐり合い」の運が強い人間だと思ってきた。
それは物事の捉え方の問題であった。何事においてもそうだが、ある事件が自分にとってハッピーなものなのか、そうでないかは、自分の主観次第なのだ。

その主観ではどうにもならない事件があると、僕はそれを引き出しにしまいこむ。
そして、引き出しにしまうことと、ゴミ箱に捨てることは、僕にとって同義だった。
記憶をゴミ箱に捨てるなんてことは、ほとんど不可能だ。
コンピュータじゃないんだから。
だから、引き出しにしまいこむ。
でも、それが将来どういう影響を自分に与えるかなんて、当時は知る由もなかったのだ。

何事にも表と裏がある。

……どうしても、ここには書けない……。

Hiro Hayashi

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