甘え

この記事は約6分で読めます。

うつ病とは、自分にとって非常に恥ずかしいものだ。
何故なら、うつ病は甘えであると思っているからだ。

ところで、うつ病を経験した人は普通、そんなことは言わない。

「うつ病」そのものが甘えではないことは身を持って実感した。
うつ病になってしまったら、もうどうにもならない。症状は本物だし、気合いや気力でどうにかなるものではない。おとなしく治療するしかない。
しかし、いま問題にしたいのは、人がうつ病に至るまでのプロセスだ。

(臓器疾患など、他の病気が原因となるうつ病についてはプロセスは異なるだろうから、ここでは対象としない)

一般的に、うつ病の原因はストレスであることが一番多いとされている。
自分の場合、うつ病の原因はまだよくわからない。
以前よく仕事のストレスが最高潮に達したときに再燃させたので、仕事のストレスに耐えられずにうつ病になったのかと思った時期もあったが、それは違うと今は思う。むしろ、それ以外に何か心のどこかに原因となるものがあって、健康な精神状態でいられる限界の閾値に近いところで日常生活を送っており、それが何かの拍子に越えてしまう、そんな感じだと思う。

実際のところ、今回の件にしても仕事は「そこそこ」忙しかったけれど、病気になってしまうほどのものではない。
今まで経験してきた仕事の超絶的な忙しさに比べれば屁でもない忙しさである。

自分のうつ病の根源は何なのかは、たぶん自分ひとりの力では解明できそうにないので、よくわからないものということにしてある。

とはいえ、人生ここに至るまでに、思い当たるふしはたくさんある。
しかし本当に心の負担になるのは、「自分ではどうしようもなかったこと」ではなく、「自分がどうにかすれば、もっとよい結果があった可能性がある」ことだ。

たとえば戦争の体験なんかは、ほとんど自分の力ではどうしようもない。
事前に分かっていたら引っ越すとか亡命することができるかもしれないけれど、事前にわかる保証もない。
これは、地震や水害などにも言える。
実際、戦争や地震、水害、火事、DVなどによって精神的なダメージを受けてしまうケースはある。
それは大抵の場合、PTSDとなって現れる。うつ病という話は、あまり聞かない。

一方、自分で未来を変えられた可能性が少しでもあるケースは、のちに後悔や自責の念に苛まれる。
「自分で何とかなったかならなかったか」という基準は、自分自身によるものである。
だから、いくら他人に「あれは貴方にはどうにもならないことだったよ。仕方がないよ」と言われても、それは慰めを受けているだけにしか受け取れない。
心のどこかでは「いいや、あれは自分がどうにかできたことだったのに、それができなかった」と自分を責める。
自分を責めるという行為は、客観的に見ればまったくもって意味のない、やるだけ無駄なものだ。自分を責めたって、何が変わるわけでもない。反省はそこそこにして、未来のことを考えたほうがいいに決まってる。
しかし人の心というものは困ったことに、そう簡単に思い通りにならない。

やはりここで、鈍感力というか、物事を割りきってしまう力がモノを言う。
自分のせいにするか、他人のせいにするか。それとも、あっけらかんと忘れてしまうか。
このへんの対処というものは、個人の性格によるものだから、簡単には曲げられない。
どのように育てられたかが大きく左右するところだと思う。

責任感の強い人は、うつ病になりやすいといわれているが、責任感だけではないような気がするのは、このように自分ではどうしようもないことを「どうにかなったはず」と勝手に受け止めて、自分以外の誰も望んでいない自責のスパイラルに陥ってしまうことがあるからだ。

もちろん、自分が責任をとるべきことで間違いをした場合には、しっかりと受け止めるべきなのだが、この場合、たとえ本人が気づいていなくても「社会」が気づかせてくれる。
あなたの先生が、上司が、親が、家族が、「あなたは責任をとるべきだ」と伝えてくれる。
だから、そこに感受性の高さは、あまり関係ない。(感受性と言ってよいのかどうか分からないけど)
自ら気づくか、周囲が気づかせてくれるかというプロセスの違いはあれど、自分の責任は自分で負う。
ここは、はっきりしている。

だからやはり問題は、人によって意見の分かれるものや、他人はみんな「YES」と言っているのに自分だけ「NO」と思うような結果についてだ。

たとえば:
事故に合って、自分だけ助かったとか。
親が離婚したとか。
結婚相手が浮気したとか。
公園で一瞬目を離した隙に、我が子が道路に飛び出して事故に逢ったとか。
受験に失敗したとか。
まあいろんなことがあると思う。

長ったらしく説明してきたが、このようなことに対して自責の念を感じてしまうかどうかということが、うつ病になりやすいタイプになるかどうかのポイントだと思う。

このような事柄をまず、「自分のせい」だと思うのだとしたら、「自責の念」で終わってしまっていたら無責任だということ。
反省なんて猿にでもできるのだ。その先どうしたらよいかまでを、突き詰めて考え、結論を導けば、その事柄からは開放されるのに、考える事を先延ばしにして、そのうち「傷が癒えた」と勝手に思い込むくらい時間がたって、そのまま放置するから、それはズシリと見えないところで、心の重荷になって残ってしまうのだ。
だから、きちんとひとつひとつの自分にとって重大で自責の念を感じるような事柄に対して向い合っていないことが、よくないのだ。
そして、向かい合わなかったのは、甘えである。これが、結論その1。

また、これらの事象に対する自分の気持ちをうまくコントロールできないのは、コントロールしてくれる誰かに頼ってしまうという心の甘えがあるからでもある。コントロールしてもらい続けると、コントロールする能力が育たない。ほとんどの場合、これは他人(ほとんどの場合、親)の過干渉によるものだが、相手も悪気があってやっているわけではないだろうということは本人にも分かっているから、責められない。
これは、コントロールする主体性の奪い合いを本気でしてこなかった自分の、甘えである。結論その2。

この結論1と2をもってして、うつ病になりやすい心の状態をつくりだしてきた自分というものが、いかに甘えた存在であるかということを説明した。

最後に、うつ病の症状が出るまでの流れである。

同じ強さのストレスを与えても、ある人には強いストレスで、ある別の人には弱いストレスになることがある。
これは受け止め方の問題。
また、

若い頃内向的だった自分は、自分が何になりたいかが分からないから自分が何になるかを決められずにいた。これは当然すぎるくらい当然の論理で、経験していない人からみたら大発見なんだろうけど、たぶん今の時代、自分探しで前に進めない若者たちはこの状態で、自分たちでもよくわかっているはず。
ところが自分の場合、自分探しとは程遠い人生を選ばざるを得なくなった。
自分探しなんてものは、余裕がなければできないのだ。
自分にできることを洗いざらい出しきって、できることをやっていきながら、できることを増やして行くしかなかった。
まさに死に物狂いで生きていたのである。
そしてこの頃には、うつ病は出てこなかった。ここが、「うつ病は甘え」と考えるようになった原点である。
しかし思うことがある。この時期に、きちんと対峙すべきだった様々なことを無視してきたことで、何年もあとになって強い反動が来たのではないだろうかと。

死にそうなくらいの極限状態で、うつ病になるかというと、ならない。
しかしうつ病の人間を死にそうなくらいの極限状態に置いたら、間違いなく死ぬ。
擬態うつ病の人間を死にそうなくらいの極限状態に置いたら、本性を現す。

心の闇を先送りにしたら、何倍にもなって返ってくる。津波のようだ。

先送りにしてきた自分が、原因である。よって、うつ病は甘えである。

予防できた病気になるということは、やはり恥ずべきことである。
他の人が回避できていることが、自分はできていないのだから。

コメント