回帰願望

この記事は約5分で読めます。

体調の不安定な生活が続く中、あまり暗いエントリばかり投稿しても読んでいる方にとって何もプラスが無いし、いったいこのブログは人の役に立つ情報を発信しているのか、それともただの日記であるのかがはっきりとしなくなってきたため、いっそ別のブログをひとつ立ち上げて暗い内容はそちらに書こうとほとんど決めたところで、いや待てよ、以前も同じことをやって、結局このブログに記事を統合したんじゃないかと思い出した。

特定の誰かに読んで欲しくない内容だとすればそれは公開すべきではないし、自分の考えが分裂していくことは精神衛生上も良くないだろうし、ありのままの自分をここに綴ることがこのブログを続けている価値なのではないかと思い直し、やはりブログはここだけにすることに決めました。

Je pense, donc je suis. 我思う、故に我ありとはデカルトが書いた有名な命題ですが、不安定で暗い今の状態であるからこそ、内からから湧き上がるものが溢れ出てきます。なにもかもが順調なときには、どうしてこんなに自分は凡庸になってしまったのだろう、以前は記し切れないほどにたくさんのことが湧いてきたのに、と思っていましたがそれは当然ですね。湖のほとりで石を投げずに波紋を期待しているようなものです。

今回の不調によってもまた、思考のバルブが大きく開かれ、様々な思いや新しい視点が次から次へと溢れ出てきたのですが、それを比較的うまく整理・記録できているのは、EvernoteとiPhoneがいつでも手元にあったおかげです。代わりに画用紙と鉛筆があれば、絵を描いていたのかもしれませんが。
でも実のところ、Evernoteに記録した内容を再び見ることは、あまりありません。きっと、書く(もしくはタイプする)という行為を通じて頭の中に刻みこんでいるのでしょう。Evernoteは、ふと閃いたことを忘れないための保険ですが、肝心のインデックスは私の頭の中ですから、記録したことすら忘れてしまえばそれでおしまい。あえて検索性を上げるためにタグ付けしようとも思いません。余談ですが、Evernoteはそのへんにまだ進化の余地がたくさんあります。タグ付けするという行為は、Evernoteの目玉機能のひとつである、「自動的にOCR(光学文字認識)がかかる」という機能の利便性と相反するものです。

話を戻しますが、僕は昨日、長年僕を悩ませ続けているこの病気についてひとつの結論に達しました。
「世界」と「自分」との関係の捉え方を変えなければ、決して辿り着け無かった結論です。

「うつ病は、心がホームシックになっている状態である」

説明を入れなくとも分かる方には分かっていただけると思います。また、人によって受け取り方も理解も違うのではないかと思います。昨年の僕がこれを読んだら、たぶん違う捉え方をしたと思います。
僕はここに達するまでに長い年月を要しました。
そしていつかまた、否定の日が来るのでしょう。

うつ病へのプロセスは、大きな心の波紋を呼びます。だから色々考えます。
しかしその波紋は、穏やかだった川の流れの向きが急に変えられてしまったからこそ発生しているだけであり、向きの変えられた流れの先には、黒い深淵が待ち構えています。

水は重く、波は立たず、終了へのシーケンスが開始されます。
なぜここに向かってしまうのか。心の故郷(ホームシックの対象)とは何か。

肉体はわたしたちの心とこの世界をつなぐインタフェースです。インプットとアウトプット。それ以外のものはありません。そしてそのどちらも、脳と神経によって支配されている。
それでは脳は、スタンドアロンなのでしょうか。そもそも、脳がスタンドアロンなのかという問いそのものは、十分に客観的なのでしょうか。
人間には視覚、聴覚、嗅覚、触覚など、いくつかの感覚が備わっていますが、いまの世の中は視覚に対する発展が目覚ましく、それ以外は相当な遅れをとっていると思います。わたしたちは、視覚に頼り切っています。目が見えないのと耳が聞こえないのと鼻が利かない状態をそれぞれ想像してみてください。

視覚情報に頼るということは、目に見えるものを重要視するようになるということです。

わたしたちが感じている「世界」とは、すべて神経を通じて脳を使って感じていることです。では、まったく違うものを通じてこの「世界」をみている宇宙人がもしいたとしたら、この世界はどのように見えているのでしょう。

わたしたちは、五感という窓を通じてこの世界を覗き見ているだけ。

映画「アバター」が映画館で映し出した3Dの仮想世界には目をみはるものがあります。私たちは窓の向こう側にさらにもうひとつの窓を作ろうとしている。同じように、私たちはこの世界を窓から見ている。

見ているものは、「ひとり」なのでしょうか?
「わたし」は「ひとり」なのでしょうか?

わたしたちなみな「同じ」「人間だ」といいます。しかし「同じ世界」に生きているのかというと、これには疑問があります。私の生きている世界はどこからどこまで私の認識のなかにあるものなのか。

「この世界」において「同じ」というものが何なのか、つまり「同じ」の「質」についてよく考える必要があります。
プログラミング言語的に表現すれば、a == bなのか、それともaというクラスのインスタンスxとyが全く同じオブジェクトであるということなのか、それともxとyのもつフィールドの値まで同じなのか、あるいは、クラスaと全く同じクラスbがあるのか。

上記はすべて同一時間軸上の話になりますが、「同じ」という判断をするうえでは次元も考慮しないわけにはいかないでしょう。投影の問題です。茶筒もボールも、真上から光を当てて下に映る影はどちらも同じ円だということです。

つまり「まったく同じ」というものは存在しない。まったく同じであれば、私たちの視点からみて、それはまったく同じ場所にあるはずで、それは重なっているはずなので、複数であるのか単数であるのかを見分けることはできないはずです。

だからこそ、ひとりの人間を素粒子ひとつひとつのの状態までまったく同じ状態にコピーしたとしても、それは同じではありません。コピーされたその瞬間から、違うものになります。

問題は、肉体が本体であるか器であるかそれとも別の何かであるかということになりますが、肉体が本体であれば、コピーされたその肉体にも意識が宿るということになりますが、もし完璧なコピーに意識が宿らなかったら、それは何を意味するのでしょうか。

また、脳はスタンドアロンなのでしょうか。意識はどうでしょう。孤独な存在なのでしょうか。

わたしたちの心とは、一体どこの何なのでしょうか。
もしかしたら私たちは同じクラスのインスタンスでしかないのかもしれません。

うつ病になるということは、そのインスタンスの、クラスに対する回帰願望なような気がするのです。

コメント