読書

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本は僕の先生も同然だ。今まで何度も本には感動をもらい、知識を授かり、人生の教えを受けてきた。しかもそれはほとんどが素晴らしく良いタイミングで、幾度となく道なき道で迷う僕の道標を与えてくれた。

よく「人生を変える本」とかいうキャッチコピーを目にするけれど、結局のところ良書との出会いのきっかけというものは、人生が平坦でないときによくある。つまり本気で悩んでいるときや、何かに躓いているときだ。ただのインクによる記号の羅列から著者が訴えかけてくるものを受信できるアンテナがバッチリ最大限に開いているときにそれは起きる。著者と読者の人生が交差する。この瞬間こそが読書の最大の喜びだ。人生を変えうる一冊に出会うというのはこういうことではないだろうか。「この本は人生を変えてくれる価値があるけど、あの本はそうではない」といった本の価値観はどこにもないはず。書いてあることは変わらない。読むタイミングと求めているものが重要だと思う。また、その本に書かれている内容がたとえ架空の物語だったとしても、そういったことは全く関係がないと思う。フィクションには著者がその物語を生み出すに至るまでの背景があるわけだし、そもそも僕たちが生きているこの世界そのものが、それぞれのストーリーを自分で作っていくものだから、自分の舞台でどれだけ自分が決めた役になり切れるかが人生の可能性だと思う。考えてもできないことはあるかもしれないが、考えもしないでできることは絶対にないのだから。

本はよく「肌で感じてはいたけれど、うまく言葉にできず心の中で消化しきれていなかったこと」をすっきりと説明してくれたり、「悩んでいることに対する思いもよらなかった視点」を与えてくれたりする。本に書かれていることは、たいてい僕よりも先を行っているのだ。世界の広さを感じる。何か見えない力があって、僕が次に読むべき本を決めているのだろうか?と思ってしまうことだってある。

書いてあることに共感や学びを覚えたとき、それを架空の物語で終わらせてしまうのか、それとも実際にどうにか昇華させることができるのかどうか、僕はこのへんに「読書力」を強く感じる。読む力が強い人は読んだ時間を無駄にしない。読書力のある人は、語り手のメッセージを人生に応用することができる。逆に言えば、どんなに素晴らしいことが書いてあったとしても、まずそれを読むというハードルがあるし、次に理解するというハードルがあり、それから内容を評価し、さらに自分なりの結論を導き出して、最後に応用がある。
理解から評価して応用するという流れがあるかないかで、読書のスタンスは大きく異なる。視野を広げてくれるチャンスが目の前にあるとき、それを否定するか、共感するけど自分には当てはめられないと決めつけるか、やってみてダメだと思うか、それともうまくやってしまうか、そういった違いだ。

やっぱり心の底から染みてくるような共感を覚えたときにこそ、それは自然に自分の行動に繋がるものだ。そして書いてある内容は不変だけれども、読み手が今までの人生で経験してきたことやそこから学んできたこと、向いている方向によって受け取り方も様々であるというのが、読書の面白いところだ。自分が感動した本だからといって、家族や友人に勧めても同じように感動してもらえるとは限らない。

読んだ内容について僕は素直に受け止めてしまう傾向があった。今でも結構あるかもしれない。そんな感化されやすい自分が嫌いだった。受け止めた内容を受け止めるまでには、人の心にはいろんなフィルターがある。ネガティブなフィルターもあるし、ポジティブなフィルターもある。「自分はそのフィルターがほとんどない、客観的な読書ができる人だよ」なんて言ってる人がいたら僕はその人を信用しないだろう。そんなの無理なんだから。フィルターのことは、あまり考えなくていい。素直にどう感じたかをそのまま受け止めればいいと思う。だって自分が感じたことに何かしらのバイアスがかかっているということに気づいたとしたら、それはそれでまた新しい自分なわけだし、受け止め方も含めて自分自身なのだから。

自分にとって本は、樹海のように鬱蒼とした森の中を突き進む中でぽつんと立っている標識のような役割なのかもしれない。その点僕の標識は、気が利いている。ただ、標識を読んでそれを信じるかどうかも含めて自分の「経験」というものは非常に大事だ、と思う。

"なぜ、あなたはここにいるの?カフェ" (ジョン・ストレルキー, イシイ シノブ)

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