夢の夢の現実

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(本記事は2004年5月29日掲載の「夢の夢」の続きのようなものです)

――小さい頃から、何度も何度も、夢に出てくる町があります。
その町には、知っている人はいません。

でも、夢のなかの自分は、その人たちを知っています。
小高い丘と、入江が見える町です。――

小高い丘に至るには、いかにも港町らしいたくさんの入り組んだ坂道を登っていきます。ときにはそれが階段になることもあります。比較的入江に近い低いところには、大小様々な大きさの家がみっしりとそびえていて、丘の頂上にほど近いところには、半分埋もれた石垣があります。きっと昔、ここにはお城が建っていたのでしょう。いまはお城はありません。石垣に囲まれた丘の頂上は、緑に覆われています。明るい緑の草花が軽やかに生い茂り、頂上付近では高い木が小さな森をかたちづくっています。海から絶え間なくそよぐ風で、草木は常に無数の緑のきらめきをはためかせています。

入江から丘を見上げたときに感じた緩やかで雄大な地形の曲線が、丘の上から入江を眺めるとまったく違う印象になります。坂はとても急で、海がとても近いところに見えます。海のきらびやかな青い躍動と、入江に広がる淡黄色の砂浜、そしてちょっと灰色がかった防波堤とそこに停泊している白い釣り船やボートのコントラストが目を焼きます。風には潮の香りがたっぷり含まれていて、空は広く、とてもすがすがしく、美しい風景です。

――ある時から、その町が本当にあるんじゃないかと思うようになりました。――

何度も夢に見て肌で感じてきたその町の昼と夜の光景は、僕の中にある光と闇をまるでぴったりうまく象徴していたのです。その町は、やっぱりあるわけがないのでした。心の在りかたと町にある様々な光景や出来事の関連性にに気づいてから、その町はやがて遠く手の届かない場所になっていきました。

闇がなければ光はない。逆もまた真なり。

やがてまた別のある時に、あの町の有り様を決めて自分の中で構築する「光と闇の模様」は、どのようにしてつくられているのか考えました。心の事象、光と闇を創造する何かが、この町の風景に反映されているのではないか。つまり、僕の性格を決定づける要素としてこの町の姿が存在していて、町の姿すなわち佇まいや雰囲気などそこにあるもの全ては、生まれてから今までの経験によって刻み込まれたものあると考えるようになりました。

このように考えていくと、ちっとも楽しくありません。
僕はただたまにまた、幻想的な世界とか、ちょっと文学的な世界の中に足を踏み入れたくなるだけです。

現実的な生活を繰り返していればいるほど、そういうものが見えにくくなってしまうのが、非常に残念です。

そういうものに身を委ねて、想像にあふれる心の空間をふたたび取り戻すためには、心への刺激が絶対に必要です。何もないところから何かをつくりだすことは、できません。だから、たまに秋の夕陽を見るために自転車をこいでみるとか、ちょっと列車に乗って降りたことのない町で降りてみる、みたいなことが必要になります。

そういうことは、こころを休めるのとは、ちょっと違います。

こころを遊ばせてあげる時間。

想像力をふくらませる時間。

それがやがて、創造力という卵をうみます。

ぼくが町の夢をみるのは、僕がその卵を孵すのに失敗したときなのです。

うまく卵を孵してあげると、それはこの現実世界において、ものすごい原動力になったり、なにかの作品になって残ったりします。

いまさらだけど、僕にはそうやって生きていくのが一番合ってる。
理論だけで、合理的にやっていくことは、とても難しいです。
だから、それができる人のことは、とても尊敬します。自分にできないから。

あたらしい刺激が入ってきたときに心の中で繰り広げられる景色。うまくいくとそれはそれはもう、息を呑むほど美しく、幻想的で、ワクワクして、心臓の鼓動が高鳴ります。
それをどうにかして、他の人とも共有したい。
そういう時ってありませんか?
それがもしかしたら、芸術なのかもしれませんね。

ちなみに僕の中で、その「スイッチ」が入るきっかけになりやすいのは、季節の変わり目です。
ちょうど今は夏から秋に変わる頃。あの町がまた夢に出てきました。
とても静かな世界。
決して動かない入道雲。
青い空は少しだけ霞がかって、秋の到来を予感させます。
影が長くなり、夜が長くなっていきます。

シーズンが終わりかけた、人気の少ない海岸を、ザクザクと砂を踏む音を感じながら歩く。

そうして、自分にムラがあるということの意味を知る。

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