社会人失格という名のスタートライン

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あるとき、ふと気が付きました。

自分は社会人として失格であるということに。

もし社会人試験があるとして、正直にその試験を受けたとしたら、僕は不合格でしょう。けれど、長年の社会人としての経験と、その場を取り繕う小賢しさがあるから、正直にならずに模範解答をして、もしかしたら合格するかもしれません。

決して、心からそうしたいのではないのです。

社会人不適合という言葉は、とても重いことと捉えられます。僕自身、この言葉の意味することにずっと縛られてきたのです。

ところが、人の生きる道に社会人・非社会人という区切りなんて、ないのです。

自分は自分という作品を作り上げるアーティストです。自分についてよく考えられるのは自分しかいないのですよね。でも、社会人という便利なテンプレートがあるので、自分についてよく考えることなく、どう考えればよいか、どう向き合っていったらよいか、などといった非常に大切なことを、自分自身で深く考えぬくことなく、答えを得ることができてしまうのです。これが、僕の感じている社会人という言葉なのでした。

なんかこう、違和感がある。僕はいつでもマジメで一所懸命なのに、どうしてか、うまく生きられない。

――自分が悪いに違いない。やり方が悪いに違いない。置かれた環境が悪いに違いない――

しかしいくらその考え方で悩んでも、答えは得られませんでした。

そして辿り着いたところが、開き直りです。

自分を何かに合わせようとするから無理があるんじゃないか?

合わせることができないなら、合わせようとすること自体が間違っているのではないか?

なにか根本的なところで、僕は勘違いをしているのかもしれない……。

自分の思うがままに生きたい。それは、決して、楽をしたいということじゃない。命を懸けられるものについて、全力投球したいということです。

よろしい、それでは自分の好きなことを始めたとしましょう。

そうしたら次に「それをビジネスにして……」と考えるかもしれない。

しかし、ここに大きな落とし穴があるということに気付きました。

……どうして、ビジネスにする必要があるのだろう?

……好きなことをやってるんだから、目標がビジネスとしての成功っていうのは、何かおかしくないか?

こうして、お金の呪縛について考えるに至りました。

お金があったら、何でも自由になるような気がしますけど、実は、お金があればあるほど、不自由になります。もっとも、どのような方法でお金を得たかとか、お金に対する価値観がどうなのかとか、そういった要素がとても大事なので、一概には言えませんが。

労働者の立場から簡単に考えると、お金というものは、複雑な経済構造の中でやりとりされている、何かしらの価値を定義されたもので、自分以外の誰かに対してあなたがどれだけ貢献しているか、それを数値化したものと言えるでしょう。

頑張ったから、お金が入る。

100円の価値がある労働には、100円が支払われる。

でも実際には、貢献度が公平に計測されて公平にお金が分配されるということはありません。そこは馬の目を抜くようなライフゲームとなっているわけです。うまくやった者が、多くを手にします。

資本主義社会において、企業というものは基本的に利益を追求します。それでは、利益が大きくなっていけば、幸せになれるのでしょうか。

……ここで、視点を変えてみました。

利益とか、売上とか、対価にふさわしいモノの提供とか、そういうことを考えながら生きている時点で、既に、お金に生かされているのではないか?と思ったのです。

なんかもっと、違う視点で生きることができる世界が、あるのではないだろうか?

僕の一部は経済に飲み込まれていますが、世界のすべてが経済の一部ではないはずです。空の広さも、海の深さも、僕は話に聞いたことがあるだけで、実感したことは、ありません。

わたしたちが社会と呼んでいるものは、そんな経済的ルール、突き詰めれば、種を存続させるために、最適化されゆくルールのもとで営まれる活動のことでしょう。

そのルールに従うことができるのならば、生活が保障されやすい世の中になっているわけですが、僕はどうやら、うまくできないようです。

うまくできていたように思っていた、それだけのことでした。

僕はテンプレートを見よう見まねでプレイバックしていただけです。それで、なんだかうまくいって、お金が手に入って、経験がさらにお金になったりするものだから、それを続けていることが正しいなんて思い込んじゃっていたのです。そして僕はそれを上手くやれる人間だと、自分を買いかぶっていました。

しかし上手くいかないことが重なると、おのずと考えざるを得なくなります。
このポンコツ頭で考えて考えてみた結果、そうか、僕はそういうことに向いていないのに、無理をしていたんだ、ということがわかってきました。

もっと内面的で、自分の中に持っているものを表現していく、自分でつくった階段を登っていく。そんなやり方に惹かれながら、惹かれていることから目を背けて、今まで生きてきたのです。

そう考えると、「みんなができるのに僕にはできないこと」というプレッシャーがなくなりました。

……群れから飛び出したオオカミは、野垂れ死ぬか、それとも新しい群れを作るか、それとも一匹狼で生きていくか。

これは実際、どうでもいい話だという気がします。

やりたいことを実現するために、やれることをやっていたら、必然的になにかを選択しながら日々を乗り越えて、結果的にどこかにいるのでしょう。

いま現在僕が置かれている状況は、社会に組み込まれています。

だから、今日からハイやめました!ということが、とてもむずかしい。でも、選択し続けていくことが大事であります。

ひとつひとつの決断が、木々の枝分かれのように、分かれ分かれて、最終的には、予定されていたところよりもだいぶ遠い場所に自分を運んでいく。そんなイメージです。

なんか上手くまとまってないですけど、今週考えていたことを書いてみました。

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