ストレスを認知するためのヒント

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現代社会生活を営んでいると、自分にストレスがかかっているかどうか認識できなくなることがあります。ストレスに慣れてしまっている自分自身に気がつくことができるかどうかは、幸せな日々を送るために欠かせない基本的スキルであると感じますが、とても難しいことです。

ここではストレスの正体を知り、影響について認知するためのヒントを書いてみましょう。

先日、友人から「突発性難聴になってしまった」と電話がありました。僕は10年ほど前に突発性難聴を経験しているので、友人は当時の僕どのような対処をしたかを聞きたかったそうです。
突発性難聴の治療には、1週間ほど入院して点滴を打ち続けるという方法があります。僕は入院治療しました。奇しくも先日、母が突発性難聴にかかり、僕に相談してきました。結局そのときも1週間入院。

突発性難聴の原因はストレスである可能性が高い旨をまず話すと、友人は、ストレスぜんぜん無いんだけどなぁ~と言いました。

そして友人に入院治療の話をすると、「入院かー、医者にもそう勧められたんだけど、仕事いま抜けられないからねぇ」と。僕はその言葉を耳にして、入院を強く勧めることにしたのです。点滴を受けるためというよりも、1週間くらい仕事のことをすっかり忘れて離れてみるそんな心の余裕すらない友人のことが心配になったのです。これこそが見えないストレスなのです。そう話すと、友人はハッと気づいたようでした。

このようにして、ストレスの渦中にあるとストレスに気づきにくい社会なのです。どんな状況においても自分が受けているバイアス、パワー、ストレス、プレッシャーに気づく簡単な方法はあるのですが、すべての人がすぐに実践できるものではありません。なぜならその方法とは、「本当にやりたいことをやって生きる、そんな自分をイメージできるかどうか」とか「自分も他人も等しく大切にできているか」といったことを始めとした、ストレスとはおよそかけ離れたように見える、人生のスタンスや人間性に関する根源的なところまで踏み込まないといけないからです。これについての僕の考えは、徐々にお話していくつもりですが、ここでは「ストレスに気づく手軽なポイント」という観点で書いていこうと思います。

まず一般的過ぎる言葉から紹介したいと思います。
それは、「疲れた」です。

疲れるのは当たり前じゃないか!という反論が今にもあちこちから聞こえてきそうではありますが、実は疲労感というものは感覚の世界です。まずは、疲労にも様々なタイプがあるというところの認識合わせをしましょう。思いっきり運動したあとの疲労、これは肉体疲労。思いっきり難しいことを考えたときの疲労・・・これは?

実は最新の脳科学研究において、脳は疲労しないという話があります。脳は疲労せず、ただ飽きるのだそうです。ではなぜ飽きるのかというと、同じことをずっとしていたりするからですよね。面白いことをしていたら飽きにくいし、つまらないことをしていたら飽きやすい。プライベートな趣味なら、飽きたら休憩したり中断したりするけど、仕事は飽きても続けちゃったりする。だから疲れる。

マラソンしたあとの爽快な疲労感と、「嫌な」仕事をしたあとの疲労感は、まるで異質。

そう、これがストレスです。やりたくないことをやると、一瞬でたまります。「やりたくないことなんてやってないけど疲れるよ」という方は、本当にそうなのかどうかよく考えてみたほうがいいかもしれませんね。肩凝りや眼精疲労が出るような場合には特に要注意だと思いますよ。

人は考えたくないことがあるとき、その「考えたくないこと」に触れずに他のことを考えようとします。これは、脳内に迂回用の回路を新設するような行為になります。物事を考えるたびにその回路を通すわけなので、処理に負荷がかかります。処理速度も落ちるし、エネルギーも使うし、いいことはない。つまりこれが、思考能力が落ちた状態(のひとつ)です。

この論理でいくと、「考えたくないこと」がストレスなように見受けられるかもしれませんが、実際のストレスは、その「こと」ではなくて、考えようとしない自分の回路がストレスになっています。つまり、考えたくないような事実が自分にストレスを与えているのではなくて、その「考えないようにする」処理が自らにストレスを課している。

ストレスによって思考能力が落ちると、様々な弊害があります。よく考えることができる柔軟な状態であれば決してしないようなアホな決断をしてしまったりするのです。

こうして思考が追いつかなくなると、人は習慣化に頼るようになります。

たとえばお箸を使ってご飯を食べるのに、お箸の持ち方を考えなくても自動的に使いますよね。それと同じように、いろんなことを自動化させていこうとします。そのため、昨晩なにを食べたか思い出せなくなったりするわけです。食べることを楽しむ余裕もない、という状態です。食べることが人生の一部であり、その瞬間を本気で楽しめていたら、ありえない話ですよね。それに、もし食べることに楽しみを感じないのであれば、食べないという選択肢だってあったはずです。1日3食、ロボットのように自動的に食事をしている人はかなり多いです。

食欲で目がくらむような場合にも注意が必要です。自分の中で消化しきれないもの(迂回しているのだから消化できるわけがない)、その代償として食べるわけです。気が紛れるからです。簡単に言えば、一時の快楽によって、本題から心を逸らしているだけのことです。同様にして、性欲が旺盛なケースであるとか、散在してしまうケースも当てはまります。必要でもないのに買ってしまったとか、欲しいと思ったら冷静になれず、気持ちが収まらずに衝動買いしてしまうとか、かなり厄介な状態です。

習慣と依存の違いについても書いておきましょう。たとえば毎朝ジョギングをする習慣のある人。これがただの習慣であれば、「今日は走るか走らないか」について臨機応変な対応が可能です。しかしこれが依存になると、雨だろうが台風だろうが雪だろうが、走らないと気持ち悪い。落ち着かない。習慣に依存してしまっているのです。

ヒントは「捨てられない何かがあるとき」です。そこには依存があり、依存はストレスを生みます。

次に、無気力について書きましょう。

やたらと自分が丁寧人間になっていると感じるときはありますか?他人に対してとにかく礼儀正しくなってしまう。これは、自己感情を置き去りにしている可能性があります。人には感情がありますから、ときには嬉しかったり、悲しかったり、ムカついたりするのが当然です。そういうことに左右されないようにして生きていると、だんだんと自分の態度が誰に対しても同じようになってきます。しかしストレスは確実にたまっているので、心を許している相手、たとえば家族などに対してキツい態度をとってしまう、いわゆるオモテウラのある状態になることがあるのです。

運動する気が起きない。やりたいことリストがたまってるのにこなせない。こうしたことも無気力のサインです。

無気力は、迂回用の回路が増えすぎてるという危険信号です。感情を、人の「ココロ」を置き去りにして、「オトナ」らしく、論理的に行動してしまおうとする現代の病だと思います。ところがこうしたケースでの論理的思考は、だいたいズレてます。なぜなら迂回用回路が多すぎて、論理思考すらままならなくなってしまうからです。

空の青さとか、木々の様子とか、風の匂いとか、ごくごくありふれたことに思いを馳せる余裕がありますか?

そのへんに生えている草木をくわしく観察したのはいつのことですか?

週が明けることや、夜が明けることを残念または苦痛に思いますか?

とにかく物事を「ラク」と「キツイ」に分けてみて、キツイほうに行くことをいやがるあなたは「不安」にとらわれています。キツイほうに行こうとするキミは、「安心」。

ただ見ているのではなく、主体的にピントを合わせてモノを観察していますか?

思考能力が落ちているというのは、腐っているということにつながります。常に薬を飲んでいますか?それ、やめたらどうなるでしょうね?それとも、なにか別の原因でもあるのかもしれないし、ただの老化かもしれないし、努力不足(脳を鍛えてない)せいかもしれないですね。でも、大切なのは今まで通ったことのない思考回路を通ることですよ。

動きが下品になっていませんか?マナーとか見た目とか、そんなものはどうでもいいと思っていませんか?それは、心に余裕がない証ではないですか?

 

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