時間の解釈

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通院のためバイクに乗って、寒くて仕方がないからドトールでブレンドコーヒーを注文して暖をとりながらタバコを吸ってたら、ふと気がついた。

全ての不平は過程だけを見るゆえに生じる。

ゴールは存在せず、常に現在という収斂された全ての存在に対する認知が存在するのみである。

点と点がつながるタイミングは、その時点まで予測不可能である。これはスティーブ・ジョブズがスタンフォードの創業式の式辞で述べたことと通ずる。

時間というものの存在について考えていた。

ゼノンのパラドックス。これは、ライプニッツが唱えた『モナド(単子)には窓がない』という解釈によって回避できる。

パラドックスというものが生じる原因の多くは、その前提に間違いがある。

僕は兼ねてから、時間というものは認知の問題、つまり錯覚なのではないかという仮説を立てていた。

アインシュタインが一般相対性理論で説明しようとした時空の歪みとしての重力。観測問題。二重スリット問題。

これらをうまく組み合わせていけば、さらに大きな絵が見えて来るように感じる。

個人的に結論付いたのは、時間という概念に古典的な思い込みがあるということだ。

ブルーバックスの時間とは何かについて書かれた本の内容も、さらに基本的な哲学的概念に反することを仮定してしまっている節がある。

詳しく説明すると、ある個体がもつライフサイクルそのものが多次元的に観察すればその生誕から終演までがひとつの閉じた系であるということだ。つまりは、その多次元的形状の複雑な絡み合いの切り口こそが現在という断面であり、その断面が同時存在しているがゆえに全ての個体が同じ時間を共有しているという錯覚に陥る。これは、我々のように意志を持っている存在にのみ、便宜上の認知として与えられた、全ての入力をクオリアとして処理した結果の『映像』を見ているに過ぎない。

そう考えると様々なことに辻褄があう。

では我々が意志によって未来を変えることができるのはなぜかを説明すると、多次元的な幾何学体という存在には、三次元的な捉え方では認知できない多次元軸の深さがあるからだ。この深さこそが多元宇宙論と呼ばれるものであり、つまり三次元的物体の変化において未来は複数あるように見えるという説明の仕方になる。

ではその複数の未来からどの未来を選択するのか、そこに有意なメカニズムは存在するのかというと、それは我々がもつ意志である。

意志は一体どこからやって来るのか。我々はなぜ自分が食べたいものを食べたいと思い、好きな人を好きと思い、洗濯したいものはこれだと決めることができるのか。これは、三次元的概念の中で過去という名の存在しないパターン学習(多次元的な自他の関係性から生まれる自然処理)から発生すると捉えることができる。

そしてライプニッツが見落としていたかもしれないことは、モナドには窓がないが、モナドすらこの世のカオスつまりフラクタルシステムから逃れられないということだ。モナドがフラクタルであるとすれば、個々の意識というものは、哲学的イド、潜在意識の果てにある超意識との関係性を説明せずには語れない。

つまり我々は自分で世界を作っているが、それは完全に閉じているように(我々の次元では)見える。しかしそれはつながっており、誤解を避けるために説明しておくと運命論とも違う、閉じているが開いたつながりを説明しうる。

余談だが、『不平』という単語が思いつかず、『complaintって日本語でなんていうんだっけ?』から英和辞書を引いて、1番適切に見える単語として不平の二文字を選択した。しかし不平という言葉から得られる印象は、ここで言いたいことの全てを表していない。

もしも全てのモナドがいまここに断面として存在し、互いに多元的影響下にあるのだとすれば、この世界はものすごく単純な構造である可能性について語らざるを得ない。

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