なぜ、こうするのか? の答え

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様々なシーンで、人によく尋ねられます。
「なぜ、そこまでやろうとするのか?」

僕はそういった質問にマジメに答えるのは野暮だと思って生きてきたので、ほとんどまともに答えたことがありません。きちんと説明する言葉も残念ながら持っていません。説明しようとしたら、途中で「もういい」って言われちゃうだろうなあと思いまして、なかなか人に伝えないところがあります。これだけ言葉数が多いのにね。

「なぜ、そこまで人のために何かしてやろうとするのか?」

この行為はよく誤解されます。自己承認欲求をこじらせてると勘違いされることもあるし、他者からなにか大きな見返りを求めていると思われることもあるし、もしかしたらものすごく余裕があって自分の悩みなんか全くないおせっかいオヤジなのかと思われることもあります。

僕が人のために何かをする理由は、正真正銘シンプルに、ただその人が好きだから。
では、好きな人って誰? って話ですが、かつて、0歳だった僕にとって、好きなのは自分だけでした。
やがて両親が好きになり、祖父、祖母、叔父、叔母たち。生まれてきた妹や弟やイトコたち、それから近所のおばちゃん、幼稚園の先生、新しくできた友達、学校の先生、病院の先生・・・と広がっていき、気がついたときにはすべての人ということに気付く羽目になりました。
この世に、嫌いな人はひとりもいません。
腹が立つこともあるし、苦しい関係を押し付けられて距離をとることもある。けれど、嫌いな人はひとりもいません。
45年間そうなんだからきっと、今後も嫌いな人なんて出てこないと思うのです。

好きな人のために何かをしてあげたくなるって、当然のことじゃないですか。

満員電車の中で因縁をつけられたとき、そりゃこっちの正当性も主張するし、そのときは本気で言い争うかもしれない。
でも、その相手を嫌いにはならない。それどころか、帰り道を歩きながら「あのオジサン、きっとストレスでいっぱいだったんだろうなあ」なんて妄想をしてしまい、「あんなにカリカリしないで、いい笑顔で過ごせるようになりますように」なんて気持ちになってしまうのですが、これってみんな口にしないだけで、心の中ではそうなんですよね?

ものすごく傷つけられたときにも、「あれだけのことを言わせた自分に、なにかまだ自分が気付いてない問題があるに違いない」と思って、何度も何度も思い返します。やがて気がつくわけですよ、自分の心の狭さに。
だから、ケンカ別れなんてしたらほんと、反省がまったくないことなんて、無いわけです。
そしてもしまたこの人生でその人に会うことができたら、もっと優しく接してあげられる自分になろうって思うんです。
けっこう頑固者なので、再会したときに面と向かってゴメンの一言は言えないかもしれない。一方的にゴメンを言うべき場ではないかもしれない。そういう思いはありますけど、それでも、その相手の幸せを願う気持ちは揺るぎません。

精神的依存されると、それをぶった切る性格もあります。なぜそうするのかといえば、昔の自分の経験をもとにしているんです。
依存しても何も生まない。幸せに気付くことができないばかりか、恐怖と怒りばかりが助長されていく。だからこそ、本人のためと思って、ぶった切ります。当然、相手は恨みます。

僕はわかりあう関係性を夢見ているただの夢想家かもしれない。でも、とても波長の低いことを決めつけられると当然、悲しい。悲しみはいっときの怒りを呼びます。

「なぜそんなにひどいことを言うの?」
ちがう・・・僕はひどいことを言っているつもりはない。おそらく僕以外の誰にも言ってもらえてないから君が気付いてないことを、僕が指摘しているだけだ。

「なぜ途中で投げ出したの?」
ちがう・・・みんなで作り上げるものの理想形から程遠い現状で、僕に依存する人がいるから断ち切るしかなかった。

僕はひどいことも言いたくないし、投げ出したくもない。
ただ、より多くの人が幸せになるための調和した選択肢が思いついたら、その手段をとるだけなんです。

人に言えば笑われることもかなり多いけれど、僕は本気でこの世界から戦争や差別をなくしたいと思っているんです。
そういう思いで毎日の選択をしていると、それが仕事と呼ばれるものでもプライベートでも、そこに矛盾した行動はとれない。
若い頃はとりましたよ。でも結果に後悔することしかなかった。そりゃ当然です。
だからもう僕は人生で後悔しないために、自分の向かっている方向を曲げたり、曲げたふりをしたりすることはやめました。

本気で差別をなくしたいと思っている僕が、プロジェクトチームで上下関係を押し付けられたらどう行動するか。
本気で人を愛しているからこそ、関わるすべての人の気持ちをちゃんと考えて、導き出した答えをもとに行動します。
一部の「仲が良い」人とか「身内」だけのための選択をとることは、必ず不調和や争いを生みます。

仕事であれば、自分のことも大切に、同僚も大切に、関わる他部署の人も大切に、取引先企業のひとりひとりの気持ちも大切に、そしてその先にいるエンドユーザーや、自分たちが作った製品やサービスを利用する人たち、自分たちが必要とする材料を供給してくれる人たち、すべてに調和した選択をとるのが、僕のやり方なのです。
それを短絡的に、「お前は会社のことを考えていない」だとか「チームの気持ちを考えろ」だとか言われると、とても苦しい。だから僕は出来る限り、自分がどうしてそういう選択をしたいのかを説明しようとします。しかし、わかってもらえないことが多い。どうしてでしょうか、人は聞きたくないことには耳を塞ぐのです。僕の説明能力が足りないのかもしれません。もっとわかりやすく説明できたらどんなに楽なことか。
説明しようとすると「面倒な人だ」とか「話が長い」とか「よくわからない」とか「そういうことが聞きたいんじゃない」とか言われてしまう。それで説明することを断念すると「説明しろ」と言われる。こんな板挟みのなかでとれる唯一の行動は、「自分の選択を信じて、実行する」しかありません。

それを実行すると、一部の理解者を除いて、みんなに恨まれたり嫌われたり卑下されたりします。
「林さんはもっと人のことをよく考えて行動してくれる人だと思ってました、残念です」
「林さんは何も考えずに突っ走るタイプですね」
「感情だけで動くのやめたほうがいいですよ」
「ついていけない人もいるんだからきちんとペースを合わせてくださいよ」
「そんなの理解できるわけないじゃないですか」
「そういうことがしたいなら、ウチじゃなくて他所でやってください」

もうね、僕はこういう言葉を何十年も聞き続けてきているから、いいんです。
でも決して慣れることはないです。一時は、心を殺して生きようとしたんですけど、そうすると僕が駄目になる。
だから、心はフルに自由にさせてあげて、その代わりそういう言葉のナイフで刺されたときの痛みもすべて受け入れようって、ずっと昔に決めたんですよ。
もちろん、反発はしますよ。できる限り、理解し合おうという努力します。
経験上、これ以上話してももう今は無駄だな、と思ったら、手放します。

それは見捨てるとは、違うのです。見捨てられたとも違う。相手は、僕のことを見捨てたと思うことが多いようですけれども。

僕はそういうときに、心の片隅でいつも思うんです。
「いつかきっと、理解してくれる日が来るに違いない。そのときには、この人が自分で言った言葉が強ければ強いほど、後悔も深くなってしまうだろう。僕にいまできることは、この人の強い負の言葉をこれ以上増やさないであげることだ」
そう思って、去るわけです。

「結局あなたって、そういうところがこうなんじゃないか」
違うよ。心の中を見せてあげられるならそうしたい。あなたはそういう理由であることを望んでいるのはわかった。でも残念ながら違うんだ。でも違う理由を話してもわからないと思うから、これ以上、僕に責任転嫁をするチャンスは作らないようにするよ。
どうか前を向いて人生を歩んでください。

こういう状況になると、僕が何を言っても言い訳にしか聞こえなくなるようです。
いやー、テキトー人間を装っていると、ほんとにこれ悲しいですね。でもいいんです。僕は出来る限りのことをしたし、それをやりたくてやってるんだし、僕はあなたと知り合えてよかったし、ここまでだったかもしれないけど、深くあなたのことを知ることができて幸せに思います。本当はもっと深く語り合える関係性をもちたかったけれど、ここまで拒否されてしまったらもう無理そうですね。ではさようなら。

こうしたことを繰り返していくと、悲しみにとらわれる自分の中から光り輝くものも見えるようになります。
悲しみの強さは変わらないけれど、死にたくなるようなことはなくなります。

そして僕は、いま自分とかかわりのある人も、かかわりが無くなって久しい人もすべて、幸せになるといいなと願う。

その先に、とても楽しい世界があります。
世界のみんなが、笑顔でいられる。本当は可能だってみんなわかってるはずなのにね。

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