自由へのヒント:「強制と助言」

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世の中で、とくに日本で、強制と助言の違いを見分けられない人が多いなあと感じる場面が多いです。それで悲しい結末になってしまう経験がほんとに残念なのです。強制と助言を見分けられない原因を一言で表現してしまうと「主体性(independence)」あるいは「完全性(integrity)」の有無につながってくるのですが、まずは、これを読んでくださっているあなたが人生でなにか判断に苦しんでいる(それすら自覚していないかも)という仮定を置いて、他人に自分を強制させず、自分で自分も縛らず、自由な判断をすることによる自主性のよろこびへのヒントを書いていきたいと思います。

自分を縛るワード

  • 「〜しなさい」(must)
  • 「〜すべき」(should)
  • 「〜するな」(don't / never)
  • 「〜せざるべき」(should not)

上記の言葉を発するのは話し相手だけではない。自分で自分に発してしまうケースも多々あります。
これらの言葉に気づいたとき、あなたはどうしますか?
反射的に「はい」(Yes)を返していませんか?
また、これらの言葉を発する相手によって、答えは違いますか?

言葉は優しく、意味を強制してくる

「〜したほうがいいんじゃない?」(maybe you had better)

この言葉は must や should よりも強制が弱い表現になります。しかし、もしもあなたが過去に、選択不能な強制・指示としてこうした言葉を使う相手と接することに慣れてしまっていると、受け取り手であるあなたは、このような提案(suggestion)助言(recommendation)強制(compulsion)と捉えてしまう癖を持っている可能性があります。

言葉で相手をコントロールすることに慣れている人は、知らず知らずのうちに、相手にとって甘美な状況をつくりあげ、それを崩さず、相手に「優しい言葉」を使いつつ、自分に対する相手の好意を巧みに利用してコントロールしてきます。

強制の言葉は、常に「強い強制力を感じさせる言葉」とは限りません。
ですので、判断基準は常に「他人が自分の行動に何か影響するような言葉を投げかけてきているか?」ということになります。

強制に気づいたときの反発

次の問題は、強制力の存在に気付き、それに対して反発したとき。
無条件のYesが、こんどは、無条件のNoになってしまいます。

本気で相手に優しい選択肢を与えている人を「優しさという名のアメと厳しさという名のムチで自分をコントロールしようとしてくる人」と勘違いしてしまうのです。
こういう判断をする人をつくりあげてしまうのって、ホントに罪なことだと思いませんか……。

こうなってしまうと、言葉はうまくその人に伝わりません。
情報の汎化能力と論理的処理能力を両立するためには情報材料が足りなさすぎるし、経験も足りなさすぎる。間違ったロジックを信じ込んでいる。

強制・推奨には Yes / No ではなく Why? を返す

まず、強制や推奨を独断で処理する「察することが得意だと思い込んでるあなた」は、よく思い違いをします。
察することが相手の意図を汲んでしまう行為であることに気づけば、どういうときに「察する力」を使うべきかがわかります。
察する力は、「相手の人生」について適用すべきです。たとえば「この人はどうして落ち込んでるのかな」「この人はどうして怒ってるのかな」
この際に注意すべきなのは、自分を絡めないこと。「私のせいで落ち込んでるのかな」「私のせいで怒ってるのかな」だと、責任が「私かあなたか」という落とし所になってしまいます。
そうではなく、誰が言ったかどうかよりも、相手が落ち込んだり怒ったりしている「真の原因」を探ることが大切です。

相手が自分について何かを言ってきたときに、そこでは「少しも察してはいけない」のです。
察するというのは、思い込みにつながります。
察することができるのは、経験が豊富な人。それでも、間違える。

察するというのはとても難しいことなのです。

なにかを強制されたとき。
なにかを依頼されたとき。
なにかを推奨されたとき。
なにかを提案されたとき。

そんなとき、いつもの癖で、「Yesと答えるべきか、Noと答えるべきか」と頭の中で計算をはじめる前に、

どうして?(Why?)」と、相手に返してみましょう。

相手は「なぜなら(because)」を話してくれるでしょう。
それでも腑に落ちる回答がなかったら、それもまた「なぜ?(Why?)」で返す。

あなた自身が納得するまで、5W1H「いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、なにを(What)、なぜ(Why)、どのように(How)」を相手に問う。
あなたが勝手に推測や憶測で穴埋めをしない。なぜなら、言ってきたのは自分ではなく相手なのだから。
本気であなたに有用な提案をしてきている相手で、その人があなたのことを愛情で接しているのならば、どのような質問にもじっくり答えてくれる。
あなたに都合よく強制したいという意図で接してきた相手だったら、質問責めと受け取り、どこかで「いいかげんにしろ」とか何とか理由をつけて質問を終わらせようとする。

連続した質問を受けて不快になるというのは、どこかに「相手に知られたくないポイント」があって、そこを探られたくない人の特徴です。
純粋にあなたのことを想う相手であれば、「めんどくさい」と思うことはあるでしょうが、いつまでもどこまでも、あなたの質問や疑問に答えてくれることでしょう。

そうしてもなお、あなたにはYesともNoとも答える権利があるのです。

強制しているのは誰か?

強制を意味するcompulsionという単語には、「外部からの強制力」という意味のほかに「抑えられない衝動」という意味もあります。
これがどういうことかおわかりでしょうか。
実は、人に何かを強制するというのは、ものすごく大変なことです。しかし、自分で自分に強制するというのは、いとも簡単にできてしまう。

実際に外部から強制される・されないを意識しているのが強制力。
それに屈するか屈しないかは、あなたが判断できる(ように見える)。

実は、強制力をあなたが受け入れてしまったその瞬間、強制する人は他人ではなく、自分になります。

さらに、強制を「自覚」していようといまいと、その強制を「やらないと気がすまない」とか「やる以外の選択肢がとれない」というのであれば、それはあなた自身が「抑えられない衝動」を持っているのと結果的には同じことです。

つまり、外部からの強制力に屈することに慣れすぎていると、今度は逆に強制に屈しないことが困難になってきます。さらに、提案や推奨ですら強制に思えてくるのです。
相手から見れば、あなたは強制の言葉でいとも簡単に行動をコントロールできるばかりか、さらに弱い言葉(提案や助言)すら、「空気を読むあなた」は検討してしまう。それどころか、「検討」というのは名ばかりで、「Yesと言えるための理由」を探してしまうのです。

どうしてNoと言えないか?

Noと言うと自分に不利益が発生するという刷り込み(洗脳)が入っているからです。

  • 子供時代、親にNoと言うとどうなったか?
    • Noと言っても問題のなかった親
    • Noと言うと怒る、諭す、説得するなどしてYesを強制してくる親
    • Noと言うと不利益を
  • 同様に、先生や上司にNoと言うとどうなるだろうか?
  • 過去に出会った人で、Noと言いにくい相手はどうだったか?

上記のように、ちょっとシミュレーションしてみれば、自分に刷り込みが入っているかどうかがすぐにわかります。

憶測をしない

下記の文章の太字下線部は、憶測です。

「これをやったら、こうなるに違いない
「こんなことやっても、どうせ無駄でしょ(だから、やらない)」
「Noといっても、どうせやることになるんでしょ(だから、やる)」
「こんなものが自分の役に立つわけがない
「これさえやれば大丈夫なはずだ

過去の経験から決めつけない

今までそれをやってみてダメだったから、それは意味のないことだ」
今までこれでうまくいってたから、これでうまくいくはず」

  • 状況は常に変化します。過去と同じ状況は二度とありません。
  • いっけん同じ行為でも、捉え方や考え方や状況で、まったく違う体験や結果を生みます。
  • 過去の経験はいったん忘れ、いま「やるかやらないか(do or do not)」を検討している眼の前の行動に対して「なぜ私はそれをやりたがらないのか?(やりたくない理由)」「なぜ私はそれをやりたいのか?(やりたい理由)」を探してみましょう。

自分に選択肢を残す

  • 命題を与えた人が自分か他人かにかかわらず、その命題が、自分に選択肢を残しているかどうかを確認する
    • 残している → これを繰り返すと、最終的に「やりたいか、やりたくないか」という純度の高い決断に至る
    • 残していない → 強制であるので、命題を出してきた対象に何かしらの見えない意図がある
  • 「好き」、「嫌い」と「愛情」は別。愛する相手でも「嫌い」になってもいい。愛の反対語は憎しみや怒りではなく無関心である。無関心というのは、かかわり合いを絶とうとすることではない。かかわり合いを絶とうとしている時点で相手を意識しているのでそれは「嫌い」である。無関心とは、その相手の存在を忘れてしまうこと。

実例から学んでみよう(1)

 金沢龍谷高校(金沢市上安原町)の野球部で4月、1年生の男子部員に対し、男性監督(40)による不適切な言動の指導があり、同校が男性監督を謹慎処分としていたことが10日、わかった。

 石川県高野連を通じて事態を把握した日本学生野球協会は11日、審査室会議を開いて同校への正式な処分を決める。

 同校によると、4月1日午後、ノックの練習中に、男子部員の集中力が欠けていると感じた男性監督が「ボールが頭に当たったら死ぬぞ」などと発言した。言動にショックを受けた男子部員は翌2日から練習を休み、母親が同校に経緯を説明した。男子部員は現在も不登校の状態が続いている。

 学校側は男性監督や他の部員、母親から事情を聞いた上で、「発言は生徒の命を守るためのものだったが、言い方が部員に不安感を抱かせる不適切なものだった」と判断。4月4日から男性監督を部活での指導を禁じる謹慎処分とし、同月7日付で県高野連に報告した。男性監督は同校の調査に「子どもたちのことを考えて発言すべきだった」と反省しているという。

 同校の山本正彦副校長は読売新聞の取材に対し、「生徒の特性を十分に理解し、配慮のある指導に努めるとともに再発防止に取り組みたい」と話した。

 同校は昨年春にも、後輩を殴った野球部員が日本高野連から1か月の公式戦出場停止処分を受けた。

Q1. 「頭にボールが当たったら、死ぬぞ」という言葉をこの生徒はどう捉えたのでしょうか?
Q2. この監督の行為の「善し悪し」に着目するのではなく、この生徒の判断力を養うという視点で記事を読むと、どう感じますか?

実例から学んでみよう(2)

Q1. 働く時間は誰が主体的に決めるべきだと思いますか?
Q2. Q1でそう答えた理由は?
Q3. 本記事の内容にある「強制」はどこにありますか?

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