相補関係

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「林さんは何に興味があるのですか?」と問われると、興味のあることが多すぎて答えにくい。今は「生命」と「自由」と「宇宙の摂理」について興味がある、と言いたいけれど、これって相手が求めてない回答だったりすることが多いので、なかなか難しい。そういうときに相手がどういう回答を期待しているかというと「サッカー」とか「経済学」とか「漫才」とか、より具体的かつ想像しやすいものだ。

体験的学習と知識的学習

生命と自由と宇宙の摂理についての探求は、この世のどのようなものを突き詰めても結局ここに行き着くのだと思う。
これは職業の枠を越えた、好奇心の果てにある。

学びには、体験的学習と、それを説明する知識的学習がある。

「自転車を運転する」という例で簡単に説明すると、
体験的学習とは、実際に自転車を使って、乗りこなせるようになるために訓練して、乗れるようになることだ。
知識的学習とは、自転車について教科書で学ぶことだ。自転車のまたぎ方、ペダルの役割、踏み方、ハンドルの持ち方、ブレーキの位置と使い方などを、マニュアルや講師等の説明を通して学習する。

知識的学習では、想像力の範疇を出ることができないし、実際に自転車に乗れるようにはならない

僕は座学が嫌いだったから、机に向かって好きでもない勉強には集中するどころか、教科書を開くのも嫌だった。しかし体験していることを自分でうまく言葉にすることができないとき、それを教科書や本などで説明されていると、「そうそう!わかるわかる!」「そうだよね〜、うまく説明されているなぁ」と思ったり「この部分は僕の考えている体系と違うなぁ」と思う部分が明確にわかる。

いま学校では知識の詰め込みが標準化されてしまっており、体験の少ない生徒は体験と知識のリンクが脳内で成立しないため、学習障害に近い状態を引き起こしてしまう。(学習障害と言い切ってもいいと思う)
体験とつながらない知識を脳内に入れても、それはすぐに記憶から消去されてしまう。消去されないように繰り返し刷り込むことを「詰め込み教育」というが、これを「勉強する」ことと勘違いしているのは、いまや学ぶ側だけではなく、教える側にも横行している。「詰め込みではない本物の学び」を教師も生徒も体験的に知らないとなると悲劇が起きる。

体験優先の重要性

自分の場合、中学生の時点で学校の勉強に飽き飽きしていた。大学中退してから社会に飛び込んで、トラックの運転手、引越し業者、警備員といった、いわゆる肉体労働からはじまり、しだいに知的労働(この言葉は誤解を生むからあんまり好きじゃないけど)にシフトしていった。

好奇心のあるものに飛び込み、まず体験する。体験して習得したものを他者に説明できるようにするために、まずは自分のやり方でアウトプットする。ここでは何も参考にしないし、したくもない。そのアウトプットと、世の中に存在する既存のアウトプット(参考書など)を比較して、自分の体験したことをうまく表現できているか、体系の説明をもっと効率的にできないかを学ぶ。

すべての学びはこのパターンが最強で、それ以外の学び方も有効ではあるけれど、思い込みの弊害や想像力の個人差などの問題があるため、効率が悪い。

体験の伴わない知識は、常識をつくってしまう。この常識がかなりの厄介者で、こびりついたらなかなか剥がれない。さらに、体験を阻害してしまう。

「このチーズケーキおいしいよ、たべる?」
「いらない。知ってる」
「あら、食べたことあるの?」
「ないけど知ってる。チーズケーキ味のお菓子も食べたことあるし」

詰め込み型教育(知識的学習に極端に寄った教育)の弊害

学習の目的が、対象そのものの摂理を知りたいという好奇心に突き動かされたものではないため、知識的学習には苦痛を伴う。

苦痛を転嫁するために、学校では「成績」「学歴」というニンジンを生徒の目の前にぶら下げる。

成績が高ければ「褒められる」。
成績が低ければ「叱咤激励される」。

学歴が高ければ「いい未来が待ってる」と思い込ませる。
学歴が低ければ「損するよ」と思い込ませる。

成績の低いものが頭が悪いという常識が生まれる。
知的好奇心が豊富で、本来的な意味での学習への意欲が高い生徒は、知的好奇心が満たされない「詰め込み教育」への興味を示さない。従って成績がよくならないケースが多い。はじめは新しいものへの興味から持続するが、長期持続できない。つまり成績を追求することに飽きるのだ。誉められようがテストで100点をもらおうが、全国模試で上位に入ろうが、そういった本質からズレたことで満足は得られない。

かくして、自分で考えることができる人間は、学校の成績が落ちる。
ここに例外があるとすれば、学習している内容そのものをきっかけにその分野に興味を持った場合のみ(たとえば数学を通じて数字の世界に惚れ込むとか、国語を通じて文学の世界にハマるとか)。それ以外の例外はない。

興味を持った場合の例外においても、成績が落ちる可能性はある。
たとえば国語の時間に教えることすべてに興味はないけれど、古典文学の世界にハマってしまった場合、「国語」という教科で教えている内容すべてに好奇心を抱いたわけではないから、古典文学に関する部分だけは成績が自然に上がるだろうが、それ以外は上がらない可能性がある。しかし横に興味を展開させる「好奇心の幅の広げ方」を知っていれば、その限りではない。

成績の低下や志望校の入試失敗などのイベントを通じて、あるいは教師や親などから「頭が悪い」というレッテルを貼られてしまうことによって、その子の脳内処理にはトラウマが植え付けられる。

トラウマは、自信を失わせる。
「わたしは勉強が苦手だ」と、自分自身に思い込ませる。
言い方を変えれば、自分に呪いをかけてしまう

このようにして様々な処理システムが本領発揮する機会を与えられず、人間ひとりひとりが持つ潜在能力(ポテンシャル)は制限されてしまう。

知識だけの入力を、洗脳という言葉で呼ぶこともできる。

自己認識のズレ

自分の姿は鏡を見れば確認できるが、自分の才能や長所は鏡に映らないから、人間というものは「自分のことが一番わからない」。

他者との比較によって自分を評価することに慣れてしまうと、人間同士の価値観や才能など比較できないはずなのに、人間の外部にある「点数」などによって、優劣比較をされてしまう。それが当たり前(常識)になると、点数の比較によってのみ、自己認識が可能であると勘違いする。

点数で比較できるのは、その点数をつけるために使用した試験問題の「答えを書くためのルールを知っていたか」に過ぎない。それ以上はない。

しかし人間には感情や感性があるため、比較されて上下を決められてしまうと、劣等感を抱え込んでしまう。

理解者

よき理解者を持つということ。
それは、自己に対する誤った評価を正してくれる存在を持つことだ。

理解者としてふさわしいのは、正直であり、思い込みをなるべく排除し、相手の体験を共感できる人。

好かれたいがために、あるいは関係性をこじらせたくないがためにお世辞を言ったり、上位に立ちたいがために相手を卑下したりする人は「歪んだ鏡」にしかならない。

他人のよき理解者になるためには、高い人格が必要であることがわかる。

他者を通して自分を見る

鏡を覗き込むと自分の姿が映るが、それは左右反転して見える。
しかし左右反転していることを意識することはあまりない。
脳が勝手に変換しているからだ。

同様に、究極的に誠実・正直・共感をもった心の鏡ともいえる存在がいたとき、その相手から映る自分の姿は反転して感じられる。

自分が持っていないものを持っているように見えたり、自分には足りない能力がとても高いように見えたりする。あるいは、自分が嫌っている癖を持っているように見えたり、嫌いな面が目立って見えたりする。

それはすべて、自分自身の心の投影だ。

たとえば相手に理知的なものを感じたとしたら、あなたは理知的なのだ。
あなたが相手の言葉に対して恐怖心を抱いたとしたら、それは相手も同じ恐怖心を持っていて、防御するために出た言葉だ。

叡智

「頭が良い人」とはどんな人か?

難しい問題をクリアできる人とか、成績の良い人のことか?
人はよくそういった意味でも「頭がいい」と言ったりする。

考える→行動する→感じる

このサイクルを繰り返すこと。

行動した結果を論理的にとらえるやり方では、人間の成長はない。
論理・感性の双方のバランスが必須だ。

考えるときに常識が外れていないと、同じところをぐるぐる廻ることになる。

では、常識はどのように外されていくのか。

光のある方向に向かう。

言葉選びでいえば、より明るい感じがする言葉を選ぶ。
景色、音楽、食べ物、・・・。
世の中のすべてのことで、そちらに向かう。

その先に叡智がある。

自己完全性への旅

自己の完全性。

嘘をつかないこと。明るいこと。無理のないこと。安らかであること。

苦しいことを自分に押し付けないこと。その他、さまざまな叡智を身につけること。

それができて他者に対して品位ある対応が可能となる。

逆もまた真なり。

他者の品位をみて自己を磨く。

それを究極的に追求していくため、他者と相補関係を形成する。

 

 

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