去る美学

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僕が多くの人に理解されにくいところ、それが「去る美学」です。

かつて僕は精神的にとても弱い人間だと自分にレッテルを貼って生きてきました。
多くの人が我慢できることが、我慢できない。
耐えきれない。

長い年月を経て、それは僕がめちゃめちゃ過敏だからだという結論を得ましたが、それを自認できるようになるのはとても大変でした。
ひとつの刺激をどのように捉えるかは人それぞれで、感じ方や捉え方を他人と比較するのは不可能だからです。

過敏であるということは、他者に対しても自身に対してもいえることで、ときには相手が微塵も感じていないことを勝手に感じ取ってしまったりもします。
ナンセンスだ、と思いますが、感じてしまうものはどうにもできない。

☆☆☆

人の痛みや自分の痛みを、大きく増幅して感じ取ってしまう。喜びや感動が大きい代わりに、生きにくい世界で、より生きにくい。
ちょっとしたことで、大きなダメージを受けてしまう青春時代。
そんな自分を知っているがために、感じることを無視してロボットのように淡々と論理だけで生きようとしてきた長い暗黒の青年時代。

感じることをやめてしまうことで、多くの人や自分自身すら傷つけてしまうことに気が付き、どうにもならないところまできてようやく、自分の感性・感情をむき出しにすることへの覚悟が生まれました。それは僕にとって『喜びの受容』であると同時に『痛みへのコミットメント』でもありました。
多くの人が普通に乗り越えられる痛みで、死ぬほど苦しむ。
苦しさの面だけにフォーカスしてしまえば、それは生き続けることの困難さに直結するのです。
生きることを諦めたい、そんな思いと毎日のように闘い続ける日々が続きました。
楽なところへ逃げたい。こんなに感情を揺さぶられ続けて、どうにかなってしまうんじゃないか。

それでも、自分で決めたことだから。

決して淡々と処理はしない。
果てしない苦しさの果てには、無上の喜びがある。それは頭で理解していても、僕は苦痛への恐怖心を克服するまでに長い時間を必要としました。

そしてとうとう、たどり着いた境地。

『なにごとも、執着してはいけない』

これを極めることでしか、生きる術が見つからなかった。
お金への執着。愛されることへの執着。名誉への執着。他人から良く思われることへの執着。成功への執着。幸せへの執着。誰かを守り抜くことへの執着。責任を果たすことへの執着。所有することへの執着。楽をすることへの執着。学ぶことへの執着。
そして、生きることへの執着。

『僕はもう死んでいる』
そういう捉え方が、最初のきっかけだったと思います。
では何故、毎日呼吸をして生き続けているのか。
そこから、自分が出せる価値への氣づきがはじまります。

どうせ死んだも同然なのだとしたら、バカだアホだと言われても、自分が最高と思えるものに取り組んでいったらいいじゃないか。
僕の全能力をもって「最高」と思える世界すら、本物の「最高」には程遠いのかもしれないのだから、全力で「最高の世界」を想像してみることにしました。

かくして僕は働くことの意味について徒然と考え悩み続け、公平性とは何か、公正さとは何かについて追求していくことをやめることができなくなりました。

とあるプロジェクトに携わっているとき、
僕は、僕がその成功の立役者になることを望んでいなかった。
プロジェクトそのものが成功してくれればそれでいい。
なぜならそのプロジェクトが成功することで幸せになる人がいるから。
そんな考え方で仕事に接していると、ときに自分の存在がプロジェクトの邪魔になることがあるということに氣づきました。
とくに多かったのは、組織全体や製品のライフサイクルを考えたとき、どのようにして後継者を育て、権限を移譲していくかについて思うことでした。

世代交代はどのような生態系にも必要なことです。
「自分がやる」というエゴを捨てたとき、自分が携わってきた仕事をもっとうまくやれる人を見つけたとき、あるいは将来自分よりもうまくやれる可能性に満ちた人を見つけたとき、その人との対話がはじまります。その人が引き継ぐことを希望したら、それを進めて問題があるでしょうか。

ときには、自ら去る必要に迫られるときがある。
ときには、合意を得られずにただ去るときもある。
ときには、恨まれ役を買いながら去るという手段もある。

目指しているのは自分にかかる称賛や報酬ではなく、あくまで目の前にあることをベストな状態で仕上げたいという思い。

いままで多くの会社をやめてきましたが、多くの人に誤解されました。いまも誤解されていると思いますし、それは相手の視点からすれば誤解でもなんでもないのでしょう。
ただ単純に、僕が「仕事を途中で投げ出すクズ」というレッテルを受容したことによって、そのとおりのレッテルが貼られただけなのです。
自分で選んだ道ですから。
でも僕が創造してきたもの、命をかけてきたものはまだ生きてる。他者の手に移譲されながらもまだ生きてる。
そして僕は、去ったその場所からではなく、別の場所で自分の思いを実現する。
手段が変化したのです。

昨年からずっと、命をかけてやってきた次世代食堂の創出。
いつもの僕の仕事っぷりです。つまり、最終的には自分がいなくても循環すること。
自分という脆弱な存在が、どれだけ早い段階でボトルネックにならずに去ることができるか。
システムそのものの美しさ。ビジネスモデルそのものの美しさ。人の思いがぶつかりあう場の創造さえうまくいけば、あとは自律的にまわりだすのが、コミュニティあるいは組織。
いま眼前には、自ら回りだした世界がある。僕はその世界の創造を夢見てきたから、とても幸せです。
去る時期が迫っています。
去るまでに、やるべきことをすべてやっておく。
後悔のないように。

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