交流からのきづき「死生観を理解してもらうということ」

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自分が人から意図を誤解されやすいのは、僕の死生観にあると氣づいた。

「昨日が人生最後の日で、今日目覚めたらボーナスゲーム」

いつからかはよく覚えていないが、あるときから、僕はこれを心から信じて実践することにした。
なぜそうすることにしたのかというと、そうしないと毎日を生きる意味を失ってしまったからだ。
なにもかもが重く苦しく感じられ、生きていることに喜びがなくなってしまい、興味や好奇心がどんどんなくなっていったとき、
呼吸をすることも嫌になった。

そんなとき、スティーブ・ジョブズの有名なスピーチで、「今日が最後の日だったら、今日やることとやらないことがはっきりする」という内容を聴いた。
それはやがて、僕が尊敬する人との出会いで、「今日が最後の日ではなく、昨日が最後の日である。もし今日生きているのならば、生かされているのだ」に更新された。

毎晩眠りにつくとき、人生にサヨナラをする。
そして翌日目が覚めることになんの期待もせず、死んでいく覚悟で眠りにつく。
翌朝、目が覚めると感じること、
「ああ、今日も目が覚めた。今日というボーナスゲームを与えられたのだ」

生きることに後ろ向きになるのではない。
むしろ、生かされているこの時間を好きなだけ自由に使う権利と、そこにある「生かされている意味」を探求しながら1日を過ごすことになる。

それからの日々は、生かされている意味がちゃんと与えられていることに氣づく毎日。
やってみて初めてわかることだが、きちんとメッセージがあるのだ。
どこからやってくるでもない、もしかしたら自分の内側から沸き起こっているのかもしれないし、天から降ってきているのかもしれない。
わかるとしか、言いようがない。

ああ、自分はいまこの瞬間、これをやるために生きているのだな。
それを受け取ることができたとき、そこに全身全霊を打ち込める。
明日のことなど当然、考えていないから。
今日がボーナスゲームで生かされているけど、明日はもう無いのだから。

こうして生きていると、お金のためとか老後のためとか、そういうことは考える必要がない。
ただ今日を乗り越えて、与えられた使命をできるだけ完璧にこなすことだけに集中できる。
存在しないはずの明日以降のために何かをするなんて、そんなことのために時間を使うことはできない。
ただし、自分が死んだあとも、世界は続いていく。
だから、世界の明日以降のためになら、何かできる。

明日に期待しないということは、いまを全力で生きることにつながるのだ。

こうして生きていると、なにもかもがポジティブにしか見えなくなる。

そして僕自身、昔からずっとこういう考え方ではなかったということが重要だ。
かつての僕は、すべてのことを綿密に計画し、タスクに優先度をつけて、計画通りに進めることに集中していた。
長期間のプロジェクトであれば、マイルストーンも立ててすべてを文書化し、いま自分がどこにいるのかを明らかにする努力をしていた。

「計画」のもつひとつの側面。計画そのものに縛られてしまうこと。
計画通りにいかないとき、それは間違ったことであるとして、進路を無理に補正しようとしてしまう。
目標が数字として表されている場合、計画はある程度まで有効であるし、世の中のプロジェクトや経営はそれで成り立っている。
しかし目標が数値化できないものの場合、常識が通用しない。

そしていま、この瞬間できることを、ただ最善を尽くす。

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この死生観を人にはきちんと伝えているのだが、どこまで真面目に受け止められているのかが疑問。

「昨日が人生最後の日だと思って生きようと思ってる・生きたいと思っている」のではなくて、
「昨日が人生最後の日だと確信して生きてる」のです。

なんの見返りも求めないで生きるということがどういうことなのか、多くの人は知らない。
知らないからこその反応をされる。

だから、見返りを求めているふりをしないとどうにも前に進まないこともある。
多くの人は、もらいっぱなしに我慢できないのだ。

そして、与えていることを「与えている」という感覚でいる限り、人はそれを口にせずにはいられない。
僕は相手に何かしてあげたことを押し付けたくないから、肝心なところは主張しない。

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