Mulse / Water

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まず、余計な飾りのいらない言葉から

こころとからだをつなぐもの――自我という幻想の影に隠されたより高次な意識の有り様と現実と呼ばれる自我の創作物とを繋ぎ留める要素――は、自我が幻想であるが故にその作り出された波の振動を響かせるもの、即ち言葉である。知性において主観による魂の観察は決して叶わず、かつ近似値まで限りなく想定可能な円環であるが故に、単一の存在である我々は永遠の欲求にも思える理解への衝動に支配される。

自由に律動はなく、ただ自由があるのみ。自由は享楽にあらず。自由は解放と束縛の間にある無限の調和であり、中庸である。この理解なくして自由を語ることは、海図も舵もない船で目的地に向かうことを正当化することと同じだ。

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次に、修飾された物語を

なにかを共感するとき、下手な説明は理解の狭義化に通ずる要素を常にはらんでいるので、たとえ話によるメタ認知への刺激が望ましい。

金は善でも悪でもない。必要でも不要でもない。
なぜなら手段であり道具だからだ。
金を水に置き換えればよい。金を火に置き換えればよい。金を土に置き換えればよい。

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