ADHDを言い訳にしないこと

暇だったので、とあるネットサービスのオープンチャットに参加してみた。様々なカテゴリでチャットルームがある中、ADHDについて語り合うルームがあったので入ってみた。

ADHDとは学術上次のように定義されている。

ADHD(Attention-Deficit Hyperactivity Disorderの略、日本語訳は「注意欠如・多動症」あるいは「注意欠如・多動性障害」、「注意欠陥・多動性障害」など)は、「忘れ物が多い」、「課題が間にあわない」、「うっかりミスが多い」などの「不注意」症状と、「じっとしていられない」、「落ち着かない」、「待つのが苦手」などの「多動性・衝動性」症状がみられる神経発達症(「発達障害」とほぼ同じ意味で使われる言葉)の一つと考えられています。

公益社団法人 日本精神神経学会「今村明先生に「ADHD」を訊く」より引用

僕は過去にいくつかのテストやヒアリングを受けて発達障害・ADHDと診断された経験がある。確かにADHDの特徴に合致するところが自分にはある。詳しくは上記引用元のサイトにも書いてある。

そんな僕が言いたいことがある。

ADHDを言い訳にしたら人生に負ける

ADHDだけでなくASD、発達障害、適応障害、社会不安障害(SAD)など様々な病名があり、そのすべてがスペクトラムで語られている。

正直僕は、ADHDを病気だとは思わない。僕の主観から語る世の中は、「社会」や「文化」というものはあらゆることが常識、規範、マナー、ガイドライン、当たり前、などの総体であり、共感覚に従うか自分の感覚を信じるかの選択する基準に対する「社会的常識」に迎合しない(したくない)人の行動が結果としてADHDと診断されているだけのように見える。

ADHDを言い訳にしないということは、黙って他の人と同じようにできるように努力しろということではない。自分の特性を自らが認めて、周囲の「常識」と違う価値観を持っている自分を認めること。そして周囲の「常識」に対してもただ反発するのではなく、その常識が生まれた背景や多くの人がそれに従わざるを得ない事情があるということを理解すること。理解のためには寛容さが必要だ。僕は曲げたくないと思っていることを曲げることを死ぬほど苦痛に感じるが、多くの人には、そこにさほど抵抗感がないということだ。

ADHDの定義そのものがネガティブな側面をもっている。言い方を変えればGiftedともいえるが、さらに展開すれば、すべての人にはGift(その人だけがもつ特性。そこに良し悪しの判断はない)が与えられており、それを本人が認識できるかできないかだけの問題であることがわかる。

ADHDであろうとなかろうと、人を傷つけてしまうことはある。問題は、相手が傷ついていると気づいたとき(認識したとき)に、それに対して言い訳をするかしないかだ。言い訳を並び立てられると傷つけられた側は「こいつはそういう人間だからどうしようもない」と去ってしまうケースが多いが、去らずに「その言い訳は立たない」と向き合う人が必要なのだ。その経験を重ねることによって、相手を傷つけるということはどんな言い訳を立ててもその事実に対して何の意味もないことを学習し、結果的に行動が変化する。

学べば行動は変わるという点では、ADHDだろうとそうでなかろうと同じことだ。ADHDと自称している偽物もたくさんいるが、本物ならば常に「なぜ?」という観察眼がある。

観察して疑問に思うことは検証してみなければ学べない。頭で理解するのと学ぶことの違いについて我々はよく知っている。