「集中力」について

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僕が子供の頃、過集中なんていう単語は聞いたこともなかったし、おそらく存在しなかった。

好きなことに没頭するのは当たり前のことだったし、それを微笑ましく見守ってくれる環境があったことを思い出すと、両親や祖父母のお陰だなと思う。

集中「力」という力は存在しないと思っているので、まずはこれについて。集中とはいったいどういう状態かというと、これまた奥深い話になってしまうと思う。ひとつのことに没頭すること。夢中になること。

今回、いちばん伝えたいことは最後の章にあります。よろしければぜひお読みくださいませ。

世の中の、集中力で悩んでいるすべての人へ。

やりたくないけどやること

好きでもないことに没頭するにはどうしたらよいか。そのことに「楽しさ」を見出す必要がある。自分なりに。

たとえば多くの人がそうであるように、僕は決算処理や税務関係の申告処理が好きではない。ではどのようにそれを処理するかというと、多くの人がそれをルーチン化でクリアする。僕は多くの経営者に「いったいどうやってこなしているのか」を質問してきたが、返ってくる答えはだいたい「毎日地道に帳簿をつけるとか、会計ソフトに登録すること」だ。これならば考える必要がほとんどない。最近の会計ソフトウェアは優秀なので、あとは自動でやってくれる。

しかしそれすらもできない僕はどうすればよいか。溜まった処理が既にある。これをどうクリアするのか。それは、「溜まった処理をこなして会計ソフトウェアの内容が充実していく喜び」にフォーカスすることだ。これ、山登りに似てる。一歩一歩をクリアすることはさほど楽しくない(と思い込んでいる)が、頂上にたどり着いたときの達成感を原動力にするのだ。

ところが、いざ始めてみると、「一歩一歩」も楽しくなってくる。領収書を見ながら、ああこんなもの買ったんだなとか、こんな仕事したなあとか、1年間の振り返りも楽しくなってくるし、どんな科目にどれだけコストをかけたのかがだんだんと明らかになってくるのも楽しい。そして明らかに減ってくる未処理の領収書。やはり「楽しさ」がないとだめなんだな。

体力

やりたいことが見つかれば自ずと集中するようになるのかというと、そういうわけでもない。集中を維持するために必要なものがいろいろある。たとえば体力はとても重要だ。体力とは、ずっと座り続けているためにも必要だ。頭を回し続けるためにも必要だ。体力がギリギリだと集中が途切れる。

慣れる

鍛える、に近い。世の中でいう「ゾーンに入る」に近いのかな。集中にもっていくコツは、何度もやらないと掴めない。自転車に乗れるようになるとか、ブラインドタッチができるようになる、に似ているかな。集中も訓練によってより省エネで効果的にできるようになってくる。

しかし「集中力を磨くため」にやってもこれは上達しない。手段が目的になってしまっている。

過集中の恐怖心

社会生活をしていると、過集中に対するトラウマが生じる。これは僕以外にも集中力がある人が同じことを口にしているから、僕だけのことではないのだと最近知った。

僕は30代の頃、読書・絵画・作曲・演奏・プログラミングに集中できなくなってしまったことを悩んでいた。当時は、どうしてできなくなってしまったのか、言葉にならなかった。じゃあ試しに本を読んでみようとしても、頭に入ってこないのだ。あのときの情景を思い浮かべると、今だからこそわかることがある。それは「集中することが怖い」のだ。

なぜ集中することが怖いのか。

それは、社会と密接な関係がある。

集中すると、まさに時間を忘れてその世界に入り込む。数時間が一瞬で過ぎていく。すると、他人との約束をすっぽかしてしまったりもする。20時にベッドに入り、数時間だけ読書をするつもりが、本の世界に入り込んでしまって、我に返ったときにはもう読み終わっていて、朝方だったりする。翌日の仕事に支障が出る。そんな感じで、「社会的な常識ある大人」の生活は、集中力と相性が悪い。規律というものは、考える必要なくただルールに則ることが優先される。よく若い頃、上司に言われたものだ。「ただ決まった時間に会社に来るだけでいい。会社に来たらあとはどうにでもなるんだから。眠い日があれば居眠りすることもある、人間だもの。しかし約束した時間に出社できないのは社会人失格だ」

はい、社会人失格の烙印を押されても己の集中力をとるか、あるいは集中を諦めて、頭をぼんやりさせながら、ルールを守ることを肝に銘じるのか。これは長年の葛藤だった。

こうして社会適合していくうちに、集中することが恐ろしくなってくるのだ。まさにPTSDでございます。

元上司と数年前に食事をしたときに「僕は会社員に向いていないって最近思うようになったんです」と伝えたら、彼は口をあんぐりさせて「え!? 今頃知ったの??」と言われました。そういうことなんですね。

いまは自分で時間コントロールしても生きていける環境を構築しているから、少しずつだけど自分の時間を作れるようになってきました。そしてこの「生きていける環境づくり」の活動に「あ、僕はここで集中力を使っても誰にも迷惑をかけないんだ」と思うことが増えてきました。僕が願っていた「自分らしさの獲得」です。好きなように好きなことをしても誰にも迷惑をかけず、誰も怒らせない。なんて素晴らしいんだろうと思いました。

同時に、自分らしさを肯定できる環境を作るためには、ここまで苦労するものなんだとも思いました。

さまざまな過去が心の中をよぎります。集中することを葛藤しながら読んだ本。作った曲や描いた絵。そのすべてが、社会適合できない自分と社会適合したい自分と社会適合したくない自分の葛藤を表現する側面がありました。プログラミングももちろん、そのひとつです。

マーク・ザッカーバーグはfacebookを立ち上げてからビジネスの人ですが、最近こう漏らしたそうです。「いまの自分にはプログラミングに没頭するあの美しくて優雅な時間を確保することができていない。本当はそれがしたい」と。要約ですが、だいたいこんな感じです。僕は彼の言葉に共感します。

でも同時に思いました。

画家でも音楽家でもプログラマーでも、自分がやりたいことに集中する世界を維持するために、みんな苦労しているだと。

なるほどね。

なぜ、あなたはここにいるの?カフェ」という本にあった魚釣りとビジネスマンの話に、どこか似ている。

とあるアメリカ人のビジネスマンが、メキシコ沿岸の小さな村を訪れたとき、小さなボートが停泊していた。

その小さなボートの中には、数匹の大きなキハダマグロがいた。

アメリカ人のビジネスマンは、立派なキハダマグロを釣り上げているメキシコ人の漁師を褒め称えた。

ビジネスマン:やあ、すばらしいマグロだね。このマグロを釣り上げるまでどれくらいの時間、漁をしていたの?」

漁師:「そんなに長い時間じゃないよ」

ビジネスマン:「へぇ、君は魚釣りが得意なようだね。せっかくならもっと働いてみたらどうだい?」

漁師:「自分の家族が食べていくには、これで十分だよ」

ビジネスマン:「それじゃあ、釣りをする以外の余った時間はなにをして過ごすんだい?」

漁師:「ゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタ(長い昼休憩)して。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌を唄って・・・あぁ、これでもう一日終わりだね」

ビジネスマン:「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、君にアドバイスしよう。いいかい、君は毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。部下を雇ってもっと売り上げが大きくなったらもっといい船も買おう。」

ビジネスマン:「そして、仲介人に魚を売るのはやめて自前の水産品加工工場を建てて、ビジネスを大きくする。その頃には、この村を出てロサンゼルス、ニューヨークへと次々に進出することができる。君はマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ。そうすれば老後もお金ができるよ」

漁師:「実現するまでには、どれくらいの時間がかかるんだい?」

ビジネスマン:「そうだな、おそらく15〜20年といったところかな」

漁師:「なるほど、その後はどうなるんだい?」

ビジネスマン:「そしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌を唄って過ごすんだ。 どうだい?すばらしいだろう?」

これはチャレンジすることの無意味さを語るエピソードのように扱われることがあるが、自分にとってはそれだけではないことに思い至った。

自分のための世界を構築する過程にすべてがあった。さまざまな会社で経験を積んだこと、友人たちと議論を交わしたこと。結婚や離婚を経験したこと。

ただひとついえるのは、「僕は諦めたことがなかったんだ・・・」という新たな認識だったのでした。チャレンジしても、チャレンジしても、うまくいかない過去がたくさんありました。それでも僕はいつか、自分らしく生きることができる日を諦めたことはなかった。ときには無残な敗北兵のようになり、身も心もズタズタになって、生きる価値とは何か? と悩み、現実に打ちのめされてギブアップ寸前になって命を落としかけたり。でも僕は負けなかった。だから今こうして生きているのだ。

会社のこと、カフェのこと。その他、いろいろ僕が携わっていること。家族やパートナーや友人たちのことも全部。全部関係あるんだ。それは、自分が生きやすい世界を構築するためという目的と繋がっている。

「集中」ということは、僕の人生に深く関わっている。

さて、ここまで僕の話をしましたが、僕は、僕以外のみなさんにも同じような体験があるのではないかと思っています。自分を振り返ってみるというのは、「何をしたか」よりも「何をしたかったか」のほうが役立つ可能性があります。

集中という甘美で芸術的な世界を「忘れてしまった」あるいは「知らない」大人たちがこぞって、集中力について議論をしているこの時代ですが、傍から見ていて、違和感しかありません。

本当に集中するって、好きなことをやるために必要なものを身に着けたり手に入れたりすることも含められていると思います。体力つけたりするような身近なこともそうだし、環境をコントロールできる能力や立場を手に入れることもそうだし、好きなことを諦めない根性もそう。

そしてそれをするためは、特殊な能力なんて要らない。自分を諦めない、ただそれだけ。

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