高等教育の二つの顔

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あけましておめでとうございます。

記事を推敲する際、無限に広がる「伝える手段」の多様さの宇宙にどっぷり浸ります。「今回はどのような切り口で望むか」。そんなことを考えながら文章を組み立てていくのが楽しいのです。そんな当ブログも今年で25周年を迎えました。独自のCGIからtdiaryやMovable Typeを経てWordPressに移行し、幾度のサーバ移行を重ねて四半世紀も続いてしまいました。

本年もよろしくお願い申し上げます。


今日記録しておきたいことは、目的と手段の深堀りと意識の変化についてです。

たとえば世の中には「大学受験が目的化してしまう」という課題があります。大学を卒業するということは何某かの証明になり得るという前提が生み出した副産物です。何を証明しているのかという認識について日本社会の通例では置き去りになる状況が多々あります。わかりやすい例として、国際的なフォーラムに出席した日本の大学生が他国の大学生と交流するために自己紹介する際、どこの大学出身なのかを他国の大学生がまったく意に介さないことに衝撃を受けたという話はよく伺います。フォーラムで大切なのは、参加している当人がどのような意見や目的や価値観を持っているかであって、どこの大学に属しているのかという情報は、そのフォーラムにおいてほぼ価値がありません。当然のことなのですが、それが認識されなくなる事態は環境の影響だと思います。自分が所属している組織が重要視される社会に長く身を置いていると、このような自明のことがわからなくなってしまいがちだからです。

人は様々な理由で大学を利用します。研究者として学問を極めるため、大学でしか得られない知見を得るため、就きたい職業に必要な専門知識を得るため、必要な資格を受験する条件を満たすため、友達を作るため、など。

これらは個人的な理由です。もうひとつ検討しなければならないことは、大学がなぜ設立され運営されているのか、です。大学はあなたの個人的な目的を満たす目的で設立されたわけではなく、他に目的があります。大学設置法などの法令を読めばわかります。e-Gov法令検索などで検索すれば簡単に読むことができます。

選択肢を広げることが良いことという風潮

大学に入る理由として「将来の選択肢を増やすため」という方がよくいらっしゃいますが、僕はここに2つの疑問を提議します。

  1. 将来の選択肢を増やすことは本当に賢い選択であるのか?
  2. 大学卒業(学士・修士・博士号の取得)は将来の選択肢を増やすのか?

僕はそこに疑問を覚えて大学を離れた人間なので、ここについて常に疑問を持っています。

資本的価値を創出しているか?

本議論において価値という言葉は広義すぎるので、細分化します。ここではまず「資本的価値」、つまり学士等の取得することが当人にとっての経済資本的な価値を持つかどうかという点です。生涯を通じて得る金額が大きくなり得るか、と言い換えることもできます。僕はその点についてこう思います。給与水準の高い職業に就くことができる可能性が高くなることは認めますが、被雇用者あるいは士業というものは法律でその内容が自由業と比較して厳格です。ですから、ある水準までは有用といえますが、それ以上となると難しい、そういう仕組みになっていると感じます。その水準とは、「一生お金に左右されないレベルになれるか・なれないか」です。また学歴は、企業などの組織で出世するために有用なシーンはあれど、必須ではありません。ただ「有用」であるというだけで取得にかける努力が相応しいかどうか、それを深く考えずに「とりあえず大学行っとけば損しないだろう」という考え方で大学に行って、それが有用になるシーンはどれほどあるでしょうか。

やりたいことが見つからない理由

選択肢を増やすということは、選択を先延ばしにすることと表裏一体です。人は決断するとき、数ある選択肢から絞り込んで、ひとつの選択を決断します。つまり選択肢はいくつあっても、人生の分岐点の多くにおいて同時に選ぶことができる数はひとつです。選択するということは、選択しないと決めたものを捨てて未練を持たないということです。多すぎる(ように見える)選択肢の数は、現代社会においてやりたいことが見つからない理由になり得ますし、選択の根拠を見つけるために「ひとつひとつの選択肢を深堀りして研究し、自分の行動理念により適した選択をする」という行為においても、選択肢ひとつひとつに対する好奇心を満たすチャンスが薄まる可能性が否めません。人生の時間は皆等しく限られていますから、結局選択権を行使しないまま年齢を重ねて、選択のチャンスを逃してしまったら、大学を卒業していようといまいと、無駄に帰すわけです。

まず、なにがやりたいのか

視野を広げるのは、時間がかかる

人間は自分の視野に届く範囲の中でしか選択ができません。

やりたいことが見つからないなら、やりたくないことを見つければいい

選択問題で正解がわからなければ、正しくない選択肢を排除していけば正解に近づくことと同じです。やりたくないことを排除していけば、やりたくないとは思わない選択肢が残ります。そのフィルタリングを何度も重ねていけば、篩の中に残るのは、結構やりたいことだらけ。

やりたい=行動理由になるほど好奇心とエネルギーの注ぎ込みができることです。

やりたいことほど長続きするのはそれが理由です。

やると決めたのに行動できなくても自分を責める必要はない

さて、紆余曲折した結果「やる」と決めたこと、それをどうしても後回しにしてしまう。「明日になったら本気出す」みたいな状況になると、多くの方は自分を内心で責めてしまうのですね。「自分で決めたことを実行できないダメ人間」みたいなレッテルを自分で自分に貼ってしまうわけです。

これは必要ないことだと思います。なぜなら行動できるレベルの決断とは体が勝手に動くレベルの決断であって、行動できないということは意識的に自分をコントロールしようとしているだけで、無意識、言語化されていない自分の感情や理屈では、納得できていないということだからです。たとえば家が火事になったら自然に体が動いて家の外に逃げたり消防署に電話したりできますよね。

行動できない行動設定は、決断していないだけのことなのです。

ではなぜ決断できないのか、と深堀りしていく際に、「自分がダメ人間だから」とか「甘えた考え方の人間だから」とか「逃げグセがついているから」と結論することは簡単ですが、何も生みません。それこそ逃げですね。でも逃げたいなら逃げたらいいと思うんですよね。あなたが逃げても世の中はさほど迷惑を被らずに回っていますから。

でもそれで葛藤するのであれば、自分の中に「今のままの自分ではいたくない。変わりたい」という願望があるということですよね。そこについて深く考えてみるのがいいんじゃないでしょうか。深く考えてみるというのは、考える時間を意識的に具体的に設定して、実際にやるってことです。これもできないのだとしたら、もはや人の助けを素直に受け入れなければならないタイミングなのではないかと思います。

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