人間性回復の経営学 第1回講義 心の枷(かせ)をはずしてみよう

SHM主宰 林 英憲

「本当」はどこへ行ったの

「型破りで自由奔放な主人公が、次々とトラブルを巻き起こしながら、周りの人々の渋い顔なぞ気にも留めずに我道を行く……」なんていうのは映画の中だけの話なのでしょうか。
それを痛快な気持ちで観ている私たちは、実は愉快でない自分の生き方の鬱憤をこのような疑似体験で晴らそうとしているのかもしれませんね。
現実の社会で、自分の思い通りの人生を歩めたなら、どんなに楽しいことでしょうか。
「本当はそうしたいけれど、周りに迷惑をかけるから無理だと思う」と多くの人は言います。”本当はこうしたかったけれど”とか”本当はこう思っていたけれど”と、不本意な結果が出ると、私たちは往々にして「本当は」という言葉を口にします。それも結構気楽に、深い悔いや挫折感も伴わずに……。
なぜ私たちは「自分の本当」を主張したり実行することをやめてしまうのでしょうか。
本音をかくし建前で対応することが大人の付き合いであり、社会で円満に生きていくための知恵だからでしょうか。
自分の本当を主張することや、自分の思い通りの生き方をすることは、わがまま勝手で許されることではないという社会の暗黙の掟を破ることに恐れを感じているからなのでしょうか。

自分をあきらめていませんか

周りの人たちとちょっと違うことをすれば、「浮いている」だとか「ハズレている」と言われてしまう。そう言われるのが辛いから「みんなと同じ」を演じてしまう。だが、いつハズされるかわからないから、常に「みんな」がどうするかを観ていなければならない。人の出方を見てからでないと、自分の出方を決められない。
輪からハズサレルかもしれないという不安と、ハズサレタときの孤独におびえて、自分の「本当」を放棄してしまう人がどれほどいることか。
社会の通念や風潮に会わせて生きるのか、自分の本当を主張して生きるかは、けっして簡単な問題ではありません。
前者を選べば不自由だけれど安全が得られるし、後者を選べば自由だけれど非難や攻撃を受けることを覚悟しなければならない。
私がここであなたに訴えたいのは、常識にとらわれて自らを不自由にしてはいないか、社会はこんなものだとあきらめてはいないかということなのです。
仕事のことになると自信に満ちている人でも、人間としての自分のあり方となると、自信を持てずに悩んだりうろたえたりする人も多くいます。私もその1人です。
自分を信じられないということは、どこかで自分をあきらめてしまっているのだと思います。
自分をあきらめてしまっていると、自分の夢や目標を持つには持っても、心の奥底には「きっと実現しないだろう」という思いが横たわっているから、やはり夢は夢で終わり、目標を達成することもできなくなってしまうのです。そういう見方からすれば、人はみな思い通りに生きているのだということもできますが、それは真に望んでいる思い通りではありませんね。
あなたが本当にやりたいことを実現したいのなら、そしてみんながそれぞれの人生を思い通りに歩めるような社会をつくりたいのなら、ここで少しだけ意識を変えてみたらいかがでしょうか。
少しだけ、何かが変われば儲けものですからね。

表 1

わがままで自分本意
なぜ、わがままに生きてはいけないのでしょうか。自分本位がダメなら、誰本位で生きればいいのですか。

いいかげん
何事もきっちり筋道通り生きることなんて私にはできません。

無責任
誰に対してどんな責任を負っているのでしょうか。それをどれほど果たせるのでしょうか。

自由奔放
縛られるのは嫌いなのです。思った通りにやってみたいのです。なぜ奔放がいけないのですか。

好きなことしかやらない
嫌いなことはやりたくないのです。

気が向かないとやらない
気が向かないことをしてもよい結果が出たことがないから。

好きな人としか付き合わない
嫌いな人と付き合うなんて真っ平ごめんです。

人に甘える
私は甘えん坊で、すぐに人に頼ってしまいます。自分1人の力では生きていけません。

我慢しない
みんなが我慢しているからって、どうしてみんなと同じにしなければいけないの。

感情をむき出しにする
なぜ感情的になってはいけないのでしょうか。むき出しでない感情表現があるなら教えてください。

子どもと大人の境目

ここで、私はあなたにお聞きしたいことがあります。
「表 1」の項目は、恥ずかしながら私自身の生き方です。そして、そのお陰で多くの叱責と非難を受けてまいりました。具体的にどう生きてきたのかはおいおい述べていきたいと思いますが、ここではまとめて「私の生き方10傑」を挙げてみます。そして、私への非難に対する開き直りも記しました。その開き直った私をあなたがどう思うかをうかがいたいのです。
なにか子どもじみたばかばかしい質問に聞こえたかもしれませんね。あるいは、小憎らしいひねくれた開き直りだと思われたかもしれません。いい年をした大人がやっている子どもっぽいことです。というより、これらは子どもの生き方そのものだとも言えます。それを大人の私がやるから非難囂々なのです。
少年期から青年期まで「良い子」を演じてきた私は、鬱積したものを吐き出すように35歳を迎えた後に「不良中年」を地で行く道を選びました。ナマの私で勝負をしようと思い立ったのです。
周りの人たちには多大な迷惑をかけました。もちろんそんな私から去っていく人もいましたが、不思議なことにこんな常識ハズレの男に今までになかったような深いかかわりのできる友がたくさんできたのも事実でした。
子どもと大人の境目に常識というものがあるとするなら、私は非常識になることで子どもに戻ったのかもしれません。
それはともかく、非難なぞどこ吹く風といったあんばいで、その後の私は「私として生きていること」自体をとてもうれしく思うようになったのです。
きっとあなたも子どもの頃は素直におおらかに自分を表現していたに違いない。でも年とともにいつしかそれができなくなって、大人になったものの大切な何か……自分らしさ……を失ってしまったのではないでしょうか。

表 2

子どもの頃
私たちはみんな 澄みきった瞳をもっていた
きらきらと輝く命は いつも暖かく そしてやさしかった
空も雲も 木や花も 鳥も虫も みんな友達だった
石ころや 水たまりだって だいじな友達だった
自然の 大きなふところに抱かれて
心の底から 笑ったり 泣いたり 怒ったりしながら
その時その時を 思いきり 生きていた

大人になって
いつのまにか 心はくすみ 冷たくなってしまった
さびしさと 空しさが いつも後ろについてくる
他人の思惑が妙に気になり 後先ばかり考えるようになり
笑うことも 泣くことも 怒ることもできなくなってしまった
一体 私は 何をしようとしているのだろう
どこへ行こうとしているのだろう
こうして生きていることに 何の意味があるのだろう
戻れるのなら
戻りたい 本当の自分に戻りたい
たった一度の人生だから
私は 私らしく この限られた日々を
思う存分生きてみたい

常識のウソ

常識を私は否定しているのではありません。ただ、常識を頭いっぱいに詰め込んで、ああしてはいけない、こうしなければならないと観念的になってしまうと、それにとらわれて体験的な生き方ができなくなってしまうのではないかと申し上げたいのです。
そして、もう1つは、常識にはウソがあるということ。いくつか例をあげてみましょう。

ウソその1 一般的自己紹介 【人間関係を密接にするはずの自己紹介が、関係を阻害する】

私が開いているセミナーでは、メンバーのほとんどが初対面なので、次のような自己紹介をしてもらいます。
「①名前の由来 ②出身地 ③年齢 ④学歴 ⑤職歴 ⑥現在の仕事の内容 ⑦仕事上の地位役割 ⑧家族構成 ⑨住まいの環境 ⑩趣味…… 以上を除いて2分間、自分を紹介してください」
この問いかけに、普段かなり能弁な方でも2分間をもてあましてしまいます。常識的で何のさしさわりもなさそうな紹介内容をなぜ除くのかといいますと、それによって聞く人にこだわりをつくり、関係を持つ以前に関係を断ち切ってしまうことがあるからです。
出身地が同じというだけでくっついたり、学歴が違うというだけで敬遠したり、そこにはもう人と人との真の出会いはありません。
さらに、もしこの①〜⑩までを全部聞かされたとしても、その人自身がどんな人なのかはまったくといっていいほどわからないということ。なぜなら、①〜⑩はその人自身ではなく、いってみればその人が身にまとった衣服を説明しているに過ぎないからです。

ウソその2 人から嫌われたくなければ自分の欠点を見せるな 【その結果、間違いなく嫌われる】

私たちは誰しも人から嫌われることを恐れます。だから、人がイヤだと思うことは見せないし、イヤがることはしないようにするのです。自分の欠点を知られないよう神経を使い、自分をよく見せようと背伸びをしたり、とりつくろってしまいます。また、人のイヤがる忠告や叱ることをしないで、馴れ合ったり媚びたりもしてしまいます。
そうして人から嫌われてしまうのです。笑うに笑えない話です。
では、どうすればいいのか。
それはあなたの欠点を惜しげもなく人前にさらけ出すことです。かなりの勇気がいりますよ。
私の失敗談を1つ。
ある経営者グループから講演を依頼されたときの話です。
エリート意識をプンプン匂わせるそのグループが私は大嫌いでした。前にも言ったように私は嫌いなことはしたくないので、その申し出を断ることにしました。
しかし、その話は私の信頼する人の推薦によって出てきたものでしたから、むげに断るわけにもいかず一計を案じたのです。
プロフィールを提出するにあたり、こう書きました。

●性格
暗くて頑固。わがままでちゃらんぽらん。性格破綻者。
●行動
無鉄砲で無軌道。非常識。
●過去
成功体験なし。失敗と挫折の連続。特に女の失敗多し。
●家庭
母子家庭をつくる。父親の役も夫の役も果たせず。
●持病
金欠病。ニコチン中毒。
●著書
なし。今後も出版予定なし。

おちょくっているように感じられるかもしれませんが、これが私の素顔。プライドの高いグループですから、このプロフィールを見ればきっと断ってくるに違いない。以前そのグループに所属していたことのある友人に見てもらうと「本当はもっともっと悪い奴なんだけれど、これだけ書いてあればいいかな」とお墨付きをいただいて送付しました。
数日後、幹事の方から「何と申し上げたらいいのか……」と困惑したような電話が入り、私は「ヤッター!」と心中小躍りした途端、「あのプロフィールを失礼ながらそのままメンバーに配布いたしましたら、何と過去最高の参加申し込みが来てしまいまして、私どももどう理解をすればよろしいのか…ブツブツ…ともかくよろしくお願いいたします」という返事。見事に私の目論見は失敗に終わったということです。
余談ですが、講演はやりました。ただ、公園前に行われた格式張ったセレモニーやメンバーの姿を見ていたら、依頼のテーマなんか話す気がしなくなって、突如「不倫の愛について」などというとんでもない話を2時間してしまったんです。絶大な(?)拍手で終えると、次は講評。よりによってその日の担当はお坊様、僧侶です。私は「へー、坊さんも経営者なんだ」とヘンな感心をしていたのですが、坊様ゆえか「不倫」についての講評などまったくできず、「色は匂えど散りぬるを…」なんて、それこそ訳のわからないことをおっしゃって何とかケリをつけたようでした。
チョット話が長くなって済みませんが、まだオチがあるのです。
講演後は例によって打ち上げ。私が一番ビックリしたのはそのときです。パーティが始まるやいなや私は大勢の人に取り囲まれ、質問責めにあったのです。あの倫理道徳を一身に背負っているようなプライド高きグループのエリート経営者たちから、「実は…私にも妻がいるのですが、もう1人おりまして云々…」と。3人ほどお相手をしていたら時間が来て、他の方々から「場所を変えてぜひ」という申し出を断り、ようやく私の失敗にケリがつきました。
嫌われようとして、好かれてしまったというお話。

まともな顔して、まともなことを言って、表ではまともな行動をしていても、本当はみんなどこか変なんだなって思います。私のようにバカばっかりやっていてもしょうがないけれど、変なあなた! たまにはハズレてみてはいかがですか、けっこう楽しいものですヨ。

人間性回復の経営学(全12回)

テーマサブテーマ
1第1回講義 心の枷(かせ)をはずしてみよう常識との対決...思い通りの人生を歩むために
2第2回講義 自分は一体何者なんだ自分の臭さに気づいていますか
3第3回講義 人間関係の極意教えます(極意につき極秘)
4第4回講義 人間尊重こそ繁栄の原点手間暇惜しまず "one to one"
5第5回講義 感動と絶望について説得では何も変わらない
6第6回講義 不安と孤独についてお触りサロンのお勧め
7第7回講義 犯人は誰だ!犯人は◯◯だ!
8第8回講義 停泊中の船舶に告ぐ…直ちに出航せよ経営とリーダーシップについて
9第9回講義 決別の決断1本の命綱を誰に投げるのか
10第10回講義 一流の条件"らしさ" の追求と発揮
11第11回講義 文化の発信基地としてこれこそサロンの使命だ
12第12回講義 もっと儲けよう、そしてもっと使おう愛と奉仕の実践
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