ある少年との出会い
友人の依頼を受けて、私は東京から200kmほど離れたある町へ生きました。シンナーとバイクに明け暮れる8人の少年たちに会うために。彼らは16歳、中学を卒業してまだ1年も経っていません。
それは重苦しい対面でした。当然のことですが、敵意を顕わにする彼らとの間に会話など生まれません。根比べのような長い時間が過ぎ、そしてやっと1人の少年が私の問いかけに重い口を開いてくれました。
「やりたいことなんて何もない。バイトをしても続かない。すぐにクビになる。親からは邪魔者扱いされる。本当はこれではいけないと思う。でも、どうしたらよいのかわからない……」
彼は大きな疎外感を持っていました。そして、こんな自分は社会で生きていけないのではないか、という恐怖に近い不安をも抱えていました。
「オトナは俺たちを頭から否定する。俺たちのことをわかろうともしない。俺ももう話す気なんか無いからイイんだけれど」
彼には相談できるオトナがいない。だがそんな彼が心の中で慕っているオトナがたった1人だけいたのです。
「俺がラリって捕まって警察に行くと、刑事さんが取調室で俺と対(たい)で向き合って怒るんだ、顔を真赤にして。思いっ切りぶん殴られたことがあった。でもそのとき刑事さん泣いていた。俺のために」
「俺はその刑事さんだけは信じられる。怒られているのにうれしくなるんだ。会いたくなるとわざとラリって捕まることだってある」
両親のいる孤児
私はその晩、少年たちの両親8組に会いました・この親たちには申し合わせがあり、朝500円玉1つと弁当を子どもに渡して家から出してしまうといいます。子どもがその後シンナーを吸おうが何をしようが全く構わない。
親たちに自分の子どもをどう思っているのかを問うと、ある父親は「私は毎日息子の肩を抱いて、お前を愛しているよと言います」と言い、ある母親は「あんな図体の大きな子に意見などしたら、逆上して私の手足の1本や2本は折られてしまいそうで怖い」というのです。まわりの親も全員同調します。
私はアタマにきました。思わず怒鳴ってしまった。
「あなた方はそれでも親か! 何が愛しているだ。何が怖いだ。自分で産んだ子どもならば、その子に殺されたっていいと腹をくくってぶつかれるのが親。我が子を厄介者扱いし見捨てておいて、他人にどうにかしてくれと投げ出すなんてあまりにも無責任だ」
ですが、私の訴えに誰1人応えてくれる親はいませんでした。
本当に子を思う気持ちがあるなら「かかわり」を学ぶ体験学習に参加してほしいという説得は、さらに無意味でした。
やりきれない思いを抱えたまま私は帰ったのです。
それから数ヶ月後、友人からの電話で、あの少年がバイク事故で死んだことを知りました。
私は一体何をしに少年たちに会いに行ったのだろう。
何かできると、心のどこかに驕りがあったのではないか。
結局何もできずに悔いだけを残して帰ってきたではないか。
あれから10年が経ちました。私の手元にあの亡くなった少年から送られた1枚の葉書があります。鉛筆でたどたどしく書かれた文字。私の心は今もいたみます。
あのとき、私は少年たちを強く抱きしめることもできました。ゲンコツやビンタをくれてやることもできました。だが、やらなかった。
彼らに両親がいたからです。両親がやるべきことだったからです。
もし、親のいない子だったら私は躊躇せずにやったでしょう。
両親のいる孤児(みなしご)。
なんと哀しいことだろう。なんと寂しいことだろう。
お前はおれの仲間だー!!!
長い時間一緒にいれば、人と人との絆が強くなるわけではありません。
「かかわる」ことをしなければ、逆に時間の長さが災いすら起こします。親子がかかわらなければ、血縁という無用なシガラミだけが残り、夫婦がかかわらなければ、ただの同居人になってしまいます。そして、恋人や友達がかかわらなければ、お互いがただ自分の淋しさをまぎらわす慰みものにしているだけ。愛だの友情だのいくら口走っても、それはすでに腐っているか存在しないかなのに、気づかない。
漫画「ワンピース」をご存知でしょうか。海賊王を目指す少年ルフィーが、旅先で孤独な者たちと出会い、一緒に生きると決める。そして彼らに危機が迫るとまさに命がけで守ろうとする。孤独な者は、なぜ自分のためにルフィーがそこまでやるのかわからない。しかし、ギリギリの状況の中で、ルフィーは絶叫する。
「お前はおれの仲間だー!!!」
孤独な者の心に強い何かが走り抜け、熱いものがこみ上げる……。
ルフィーは、仲間のためにいのちを捨てようとしているのではない。大好きな仲間と一緒に生きるために、自分のいのちを思いきり使っているのです。そこには悲壮感などない。爽やかな風が吹いている。
いのちは守るだけにあるのではない。惜しみなく使ってこそ、いのちは輝くのだ、と私は思うのです。
かかわってこそ人間
「かかわる」という言葉は知っていても、実際それがどんなことなのか、わからないという人は少なくありません。
携帯電話やパソコンの普及で、確かに連絡はとりやすくなりました。しかし、電話やメールのやりとりがいかに頻繁であろうと、声と文字だけでは真のかかわりは実現しないと私は思っています。
《アパートの一室にパソコンが2台。そこに肩を並べて若い男女が座っている。2人は同棲中。何と隣にいる相手とメール交換をしているのだ。「面と向かって言えないことも、メールだと伝えられるのです」と2人は笑顔で口を揃えて言う。》これはTVのルポ。
ムムー、ホントかい? 思わず唸ります。この2人、結婚して子どもができたら、子どもともメールで意思の伝達をするつもりなのでしょうか……。
お互いが傷つくことを恐れて相手の意向を打診している限り、かかわりなど生まれません。
かかわりは、「いのちといのちのふれあい」だから、時として互いが深く傷つくこともあります。だが、どれほど過去に傷ついたとしても、人間として生きようとするならば、「かかわる」勇気を捨ててはいけないのです。
傷つけまいとしてお互いがかばい合っていることが、結局もっと深く相手を傷つけることになってしまうのだから。
駆け引きはやめよう
スタッフ育成の話の中で、よくある質問の1つが「叱ってから誉めるべきか、誉めてから叱るべきなのか」というもの。どうやら、これはスタッフを叱ったときのフォローを考えてのことらしいです。経営者がいかにスタッフに気を使っているかということはわかりますが、この質問をあなたはどう思われるでしょうか。
この質問に前者だ後者だと答えようとした方は、人間関係でかなり迷ったり苦労したりしているはず。そして上手くいかないはず。
この質問自体をナンセンスだと思った方が正常なんですよ。
叱られてから誉めても、その逆でも、言われた者は「今自分は叱られているの? 誉められているの?」と訳がわかりません。叱る感情と誉める感情は全く反対に位置するもので、それが同時に湧き起こってきたら病気です。
叱るときは叱る。フォローなどしない。これであなたの思いがストレートに相手に通じるのです。
辞められては困る、いじけられたり反抗されては困るという意識が強くなると、どうしても頭で考え策を練ります。交換条件を出したり、恩を着せたり、圧力をかけたり、おだてたりする。これが駆け引きなのです。
もしあなたが人間関係の中で駆け引きをするならば、相手やまわりの人たちはきっとあなたに強い疑惑と不信を抱くに違いありません。
説得は納得を生まない
駆け引きに似ているものに説得というものがあります。
私はこの説得という言葉に良い印象を持ったことがありません。
説得とは、理屈で相手を説き伏せることだ、と私は思っています。過去、私は数多くの説得をしてきました。そして数多くの説得を受けました。そして、それは常に空しかった。私が説得した相手は、たとえ説得に応じても心から納得してはいなかったし、説得されたときの私もそうでした。そうして私は説得というものを捨てたのです。
ある地方都市にK子という理容師がいました。彼女は前途を嘱望される優秀な人材で、オーナーは彼女に新店を任せるつもりでいました。しかし、彼女の夢は東京で仕事をすることでした。意思は固かったのです。困ったオーナーは、彼女をあるセミナーに参加させました。それは、「社員たるもの社長のために命を投げ出せ」といった内容のスパルタ研修でした。彼女はけっして屈しなかったのですが、最後に講師から「ここで君が店を辞めて東京に行く決意をすると、説得を依頼された私とオーナーとの間に亀裂が入って、長年の交友関係が断ち切れてしまう」と言われて困惑してしまったのです。そして……彼女は講師の説得に応じました。
しかし、その後の彼女は思い悩む日々が続き、活力も失せ、精神的にも異常をきたして病院に通う身となってしまいました。そして、オーナーは、今度は彼女を私の主宰するセミナーに送り込んできたのです。
セミナーの中で、彼女はまだ夢を捨てていないことがわかりました。「自分の生き方は自分で決めろ」と言う私に、彼女は再びオーナーと私の交友関係を心配しました。「君の決断で、たとえその交友が切れたとしても、それはオーナーと私の問題であって君には関係ない。勇気を出して悔いのない道を選ぶべきだ」と言い切ったとき、彼女に大きな衝撃が走り、そのショックで彼女は失神昏倒してしまったのです。参加メンバーの熱い励ましの中で彼女は目覚め、そして言いました。「病気は治りました。これからはけっして自分を捨てたりはしません」
鬱積は飛び散り、彼女は明らかに自分を取り戻したのです。そして苦しみの末の初めての「自分の決断」。その大きな感動の中でK子は大粒の涙をぽろぽろとこぼしたのでした。
その後、オーナーと私との関係は決裂。K子は自ら決めたお礼奉公を1年やりとげて退社。上京して長年の夢をついに叶えたのです。そのときの彼女の輝くような笑顔を私は今も忘れることはありません。
価値観を押し付けるなかれ
このオーナーと私との交流は決裂の後、復活しました。
彼は苦労人でした。その苦労を我が子やスタッフにさせたくなかった。責任感も強い彼は、いつしかスタッフを幸せにするのは自分の仕事だと思うようになりました。彼はK子という有能な戦力を失うことを恐れたのではなく、自分の元で幸せになってほしかったのです。K子に限らずスタッフには、自立するなら店もつくるし、結婚の世話もすると常々言っていました。実際にそれをやってしまう男でした。彼のスタッフを幸せにするという使命感は、彼の信ずる宗教の教えと相俟ってエスカレートし、退社を願い出るスタッフには説得を超えた断定で引きとめました。彼はスタッフ個々の意思と決断を奪ってしまっていたのです。スタッフはオーナーから安全で幸せな将来を約束されていたにもかかわらず、活力を失い、K子のように心の病に羅る者も出てきました。そして彼は最後の手段として、スタッフ全員を自分の信ずる宗教に強制加入させてしまうのです。
私は彼と「価値観」というものについてやりあいました。というより、ほとんど喧嘩でした。ですが、その喧嘩の果てに彼は自分の価値観が私のそれと違うことを知り、どんなに自分がよいと思ってもその価値観は他の人には通用するものではないことを悟ったのでした。
彼に限らず、私たちもよく他人に自分の価値観を押し付けていることがよくあります。十人十色それぞれ考えは違うなどと公言する人でさえ、是非善悪を言い争うとき、自分の考えに似ている人のみ受け容れ、違う人を徹底排除しようとすることがあります。主義・信条を強く持つ人、人生経験豊富な人、成功を自認する人などは特に気をつけなければならない、と私は思います。
葛藤と決断と責任と
日々を生きる中で、私たちは常に心の中に起こる葛藤と戦っていかねばなりません。葛藤は苦しいけれど、そこから目をそむけたときから人間としての停滞が始まるからです。
右か左か、ハイかイイエか、言うべきか言わぬべきか等々、たとえ小さなことでも決断しなければならないことが次々と起きてきます。
私たちにとって危険なのは、その小さな決断を怠ること。自分で決断しなかったことをやって、良い結果が出なかったときには後悔するか、他人のせいにしてしまうからです。
「本当は行きたくなかったけれど、これも付き合いだからと渋々飲みについて行ったら体調を崩してしまった」というような後悔。
「先輩の指示通りやったのですが、結果はあのようになってしまいました」というような言い訳。指示をした先輩が悪いのであって、自分には責任がないといわんばかり。
自分がやったことだから、「私がこうしました」というべきなのに、「こうなってしまった」などという無責任な風潮は、実はどの社会でもはびこりやすいもの。責任を追及されずに済むからです。しかし、そんな社会ではモラルアップなど到底望めないし、人間は腐ってしまいます。
あるサロンで「快適な寮生活」をテーマにミーティングが開かれました。新人のN君が発表しました。
「私のいる男子寮はゴミだらけで非常にきたないです。それは……私がゴミを捨ててよごしているからです」。聞いていた私は思わず拍手をしてしまいました。痛快な発表でした。
計らいを捨てて
最近大きな注目を浴びている東洋系の若い映画監督のインタビューがありました。彼は言います。「僕は観客のことを考えて映画をつくったことはない。いつも僕と仲間たちが楽しいと思うものだけをつくる」。
だが、そんな彼の作品に多くの人が感動しているのです。
当業界では数年来ホスピタリティが叫ばれ、今や「顧客の感動」が経営の論点になっています。いかにして顧客を感動させるかが論議され、さまざまな仕掛けやシステムが提案されます。
それを無用とは言いませんが、結局は顧客の再来店を目的とした感動の演出であることを知ったときに、その作為に反発や幻滅を覚えるのは私1人ではないでしょう。
感動は目論んで生み出すものではない、と私は思います。
もし、本当に顧客に感動してほしいのなら、仕掛けやシステムを捨てて、1人ひとりが無作為に自分の地を出して誠実に接することが最も大切なのではないでしょうか。
人と人とが接するときに、計らいを持ってあたるということは、相手を冒瀆(ぼうとく)することになりかねないということを、私たちはよくわきまえておくべきでしょう。
人間の魅力について
接客が重要な位置を占めるこの業では、にこやかで明るい対応が要求されます。ですから、本来はそうでない人もプロとして笑顔をつくり、明るく振る舞うのです。
そんな中で、私が忘れることのできない1人の女性がいました。
彼女の表情は暗く、笑顔もないし口数も少ない。
その彼女のいるサロンで、私は勉強会を開いていました。テーマは「私の魅力」。誰もが一般的で常識的な長所を語る中で、最後に彼女の番になりました。
「私は、暗くてウジウジして決断ができません。それが魅力です」
周りからヤジが飛びました。「それは欠点だよ!」
私は皆を制して彼女に聞きました。「なぜ、それがあなたの魅力だと思ったのですか」。
彼女は答えました。「私は皆さんと違って明るい性格ではありません。笑顔もつくれません。小さい頃から親に縁がなく、いつも独りぼっちでした。学校ではいじめられ続けました。何度死のうと思ったかわかりませんが、死ぬ勇気もなかったのです。でも、この仕事に入ってみたら、お客様の中には私と同じような人がたくさんいるということに気づきました。顔を見るとわかるんです。そういうお客様の気持ちをわかってあげられる。だからそれが私の魅力だと思ったのです」
皆、うなだれて声も出ませんでした。1人のスタッフが立ち上がりました。「ゴメン! 今まで俺はお前のことを馬鹿にしていた。お前の話を聞いて本当に恥ずかしいと思った。今は、お前と一緒に仕事ができることに誇りを感じている」
彼は彼女に握手を求め、彼女はそれを受ける。閉会と同時にスタッフ全員に取り囲まれた彼女は、心から笑っているようでした。
人間性回復の経営学(全12回)
回 | テーマ | サブテーマ |
---|---|---|
1 | 第1回講義 心の枷(かせ)をはずしてみよう | 常識との対決...思い通りの人生を歩むために |
2 | 第2回講義 自分は一体何者なんだ | 自分の臭さに気づいていますか |
3 | 第3回講義 人間関係の極意教えます | (極意につき極秘) |
4 | 第4回講義 人間尊重こそ繁栄の原点 | 手間暇惜しまず "one to one" |
5 | 第5回講義 感動と絶望について | 説得では何も変わらない |
6 | 第6回講義 不安と孤独について | お触りサロンのお勧め |
7 | 第7回講義 犯人は誰だ! | 犯人は◯◯だ! |
8 | 第8回講義 停泊中の船舶に告ぐ…直ちに出航せよ | 経営とリーダーシップについて |
9 | 第9回講義 決別の決断 | 1本の命綱を誰に投げるのか |
10 | 第10回講義 一流の条件 | "らしさ" の追求と発揮 |
11 | 第11回講義 文化の発信基地として | これこそサロンの使命だ |
12 | 第12回講義 もっと儲けよう、そしてもっと使おう | 愛と奉仕の実践 |