ともに考えともに語らう場として
私はよく誤解されます。身のほど知らずな私が、自分自身を探求するセミナーや人間性回復のための出会いの体験学習(エンカウンター・グループ)などの学習会を主宰しているせいだと思うのですが、人様から人間関係の達人だと思われてしまったり、悩みなどない人間だと思われてしまうことがたびたびあるのです。
誤解を招くというのは、わが身の不徳の致すところで大いに反省しなければならないのですが、しかしその不徳ゆえに、どうやらエラそうな態度をとってしまっているようなのであります。
でも、正直言って私の悩みは年々増すばかり、人間関係に至っては超へたくそで、だからいつも暗くて小難しい顔になってしまうのかもしれません。私の主宰するセミナーでの最終日、参加された人たちから、「先生も一度このセミナーを受けるといいですよ」なんて言われてしまうような私なのです。
そんな人間がなぜセミナーなど開けるのか、という疑問をお持ちの方にお答えしましょう。「そんな自分だからこそできるのです」。
私も人間的な面で多くのハンデを背負った男です。ハンデがあるからこそ同じような人の気持がわかると言ったらおこがましいかもしれませんが、もしあなたが生きることの難しさに悩んでいるのならば、この通信講座を介して、「人間としていかに生きるか」をともに考え、ともに語らっていこうではありませんか。
真実が闇に葬られる
もう20年以上も前のことになりますが、この業界に入って驚いたことが数々ありました。矛盾と理不尽とが重なり合って、第一線で毛だらけ汗まみれで働く人たちにとりつき、ダニのようにその生血を吸っている。組合も、流通も、学校も、ジャーナルも、そして心無いオーナーも…。
純朴で暖かな人たちは、それを知ってか知らでか頓着もせずにひたすら仕事に立ち向かっている。私はこの大切な仲間たちのことを考えると、どうしても許せない。
頼まれもしないのに、私は勝手に義憤に駆られて暴れ回りました。
組合主催の講演に招かれて組合の無機能ぶりを批判をする。流通主催の講演では流通の裏を暴露する。講師をしていた専門学校では生徒を企業に売るようなことはやめるべきだと詰め寄る。そして、そういう諸々を知っていながら何の改善提案もしないジャーナルの責任者に突っ込みを入れてしまう等々。
当然のごとく私はものすごい非難を浴びました。私を説得懐柔しようとする人、泣き落としでくる人、怒りあらわに「殺すぞ!」と脅す人さえも現れました。当時、私のいた職場の親会社(流通)も不買運動を起こされました。
業界の慣習や不文律の中を生きてきた人々にとって、私はまさに招かれざる客、悪党以外の何者でもなかったのだと思います。真実は必ず明らかになるのだと、私はこの目で見た事実を伝えたのですが思いきり撥ね返され、そして拒絶されました。
真実が闇に葬られてしまうことがあることを、不正が正義の仮面をつけて罷り通ることがあることを、私は思い知るしかありませんでした。
真の自分が遠ざかる
一生懸命生きている。でも、ふと空しくなってしまう。
一体何のために一生懸命やっているのだろう。
空しさを感じることがいやだから?
ではこの空しさは一体何なのだろう。
何をやっても、何の意味も無いように思えてしまう。
どうしてこうまで私たちは充実感を得ることができないのでしょうか。
考えてみれば、現代に限らず人間が社会を形成したときから、社会は自分自身を持った人を否定し、個性を発揮する人を否定してきたのではないか。
真の自分を持ち、人間としての自分の判断で生きている人はときとして社会の要求と対立し、社会を批判し、社会に抵抗する恐れがあるから、既成の社会や秩序にとってはきわめて危険な存在になってしまうのだ。
だから常に社会に順応する人を要求し、社会に抵抗するような「自分」というものを持った人間を嫌うのでしょう。
社会の仕組みに速やかに順応する能力を持った人は、世渡り上手と言えるかもしれませんが、きっと心の深いところでは空虚感に苛まれているに違いないと私は思うのです。だって、そういう人は自分が自分であることを放棄してしまっているのですから。
自分自身を放棄してしまった人は、その空虚感を埋め、自分を守ろうとして結局のところ地位や財産を守ることを人生の目的にしてしまうのであり、だからそれが失われはしないかという不安に終始つきまとわれることになってしまうのです。
生きていく基盤の崩壊
『いま私たちがそのなかで生きている現代という時代の根本の特長は、いままで私たちの人生をその根本のところで支えていた一切の価値が崩壊し、わたしたちの生きていく基盤がその根本のところでゆらいでいる、ということにある。
もちろん現代という時代をそのさまざまの側面から特長づけることはできる。しかし現代という時代の全体的性格を一語で語るとすれば、それは《混沌》と呼ぶにもっともふさわしい様相を呈しているといいうる。いまわたしたちは自分がそこにしっかりと身を置いて生きていくという、自分自身の身を置くべき根本の基盤をもたない。それゆえ私たちの感情や思考や行動は常に動揺し、混乱せざるをえない。
正直なところ、私たちの大部分はいま途方にくれ、とまどっている。たとえ意識的にはそれを認めようとしなくても、私たちの感情や思考や行動そのものがむしろ正直にそれを表明しているといってよい。
私たちはいま自分自身がどこに身を置き、どこに向かって生きればよいかわからないでいる。それゆえ根本的に私たちはなにを基準にしてものを考え、なにを基準にしてことを批判し、なにを基準にして行動すべきかわからない。そこに社会的混乱や個人的な生活態度の混乱が生じないとすればむしろ不思議である。
私たちは自分の外側になにひとつ確かなもの、信じるものをもっていない。また私たちのほとんどは自分自身の内側にもなにひとつ充実した存在体験ともいうべきものをもっていない。それゆえ私たちは結局生きることの《疑惑》のなかに閉ざされざるをえないのであり、それゆえまた、溺れるものが藁をもつかもうとするように、なにかに頼り、なにかを《狂信》しないではいられなくなる。現代人のほとんどがその生きていく根本の基盤をもたないということが、実は現代を疑惑と狂信の時代として特長づけているのだというべきなのである。』
(谷口隆之介「疑惑と狂信の間」1968年より)
混沌の時代
さらに同書の引用を続ける。
『現代の単に表面的な繁栄や一時の安定とはうらはらに、現代の人間状況はますます暗さを加え、混乱の度を深めつつあるということが、現代の実情である。現代人のほとんどをますます深くむしばんでいく不安、そこから生じるさまざまの強迫的行動、また暴走、感情の混乱、自殺また他殺、種々の犯罪、敵意と憎しみ、人間不信と無関心、真偽・正邪にたいするまったくの無感覚、あらゆる年代層にひろがっていく神経症…。そこに私は現代人の人間的実相をみるのであり、現代人における疑惑と狂信との種々相をありありとみる。そして、それが生きていく基盤を失った人間状況そのものにほかならない。』
(同掲・同書)
30数年も前に書かれたものが、まさに現代のこととして実感をもって私たちに訴えかけてきます。
わが国の経済的状況はいまだ回復の見込みもたっていませんが、人間的状況にいたってはまさに末期的症状であるといっても言いすぎではないでしょう。
人間疎外の条件が揃いすぎるほど揃った現在、私たちはそれを分析や評論していたずらに嘆くのではなく、何とかしてもう一度私たちの生きていく根本の基盤を回復していかなければならないと、私は切実に感じているのです。
それは政治に向かって訴えたり、教育体制のあり方を論議することではなく、私たち1人ひとりが再び人間としての自己を回復していくという問題なのです。
つまり、私たちがいま手探りしながらでも、自分が人間として生きていく原点を自分自身の手で確かめていく、ということが待ったなしで必要なときを迎えているのだということを申し上げたいのです。
他人のせいにするのをやめよう
私たちは、自分が生きていくことに行き詰まると、すべて他人のせいにしようとする傾向をもっています。自分は被害者であり、自分は他人から不幸にさせられていると思い込み、常に他人を責め他人を憎むのです。そこには自分自身の現実の姿を見つめることもなく、ただ自分の感情に支配されて他人に自分の不満や憎しみをぶつけてしまっている。そうして自分と他人との関係を自分で引き裂いておきながらもなおそれさえも他人のせいにしてしまうのです。
自分を守ろうとするあまり、他人を敵視し、その結果自分を孤立させて自分で自分を不幸にし、自分で自分の人生を閉ざすようなことをやっていては人を大切にもできず、また人と人との関係も不毛にならざるをえません。
自分自身から逃げないで
それから、私たちは現実を直視し、ありのままを受け入れる勇気を持たなければいけませんね。やみくもに自分を防衛しようとして逃避的な態度をとるならば、いやでも神経症的症状を引き起こすことになってしまいます。古人は生きることの難しさを思索の末に人生観や思想というもので表現してきたのですが、今や多く音人々は思索を通さず、感情的・神経的・生理的な疾患として表していると言われます。
人と人との関係の中で生きることに失敗し、自分自身として生きることに失敗し、そこで失敗した自分自身から逃避しようとしてしまう。そして逃避した結果、不安におびえ、孤立におびえ、罪悪感に苛まれ、そして他人の存在におびえ、ついには自分の存在そのものを否定してしまうようになってしまうのです。
そういうとき、私たちはすでに生きた自分を失い、生きた他人を失っているのです。
一方的な人の見方をやめよう
パソコンや携帯電話の普及でコミュニケーションツールは増えたのに、人と人との対話的関係がさらに失われてしまったと感じるのは私だけでしょうか。メールを打って返事が来ないと、それだけで嫌われてしまったと思い込んで悩むような状態は決して対話的関係とはいえません。
また、私たちは対話的関係が失われると、自分の先入観や主観的感情で他人を見てしまいがちです。憶測で他人をこうだと決めつけてしまうこともよくあることです。人と人との関係は、もともと一方的ではなく相互的なものです。
しかし、特に近年、子に過度の期待をかけ、自分の思いを一方的に押し付けて子を思いどおりにしようとする親が急増している事実を知るにつけ、「親が子を殺してどうする!」と叫びたくなってしまいます。支配と服従の関係である限り、つまり、お互いが1人の「人間」としてかかわらない限り、生きた人間を実感することはないでしょう。
あるかかわり
ある高校で先生と生徒の対話。(先生=T 生徒=S)
S「今日で学校を退学させていただきます。」
T「突然なにを言い出すの?」
S「学校に通う意味をまったく見出せなくなったんです。」
T「あと3ヶ月で卒業でしょう?」
S「卒業証書をもらうためだけに学校に行きたくないのです。」
T「今時、高校は出ておかないと後で困るのはあなたよ。」
S「出なくても立派に生きている人はたくさんいると思います。」
T「ご両親はどう言っておられるの?」
S「両親には私の気持ちは話してあります。」
T「ご両親の承諾が先決ね。」
S「先決は私の気持ちです。在籍しているのは私なんです。両親は承諾してくれています。」
T「いくらあなたがそう言っても、私はあなたの退学の申し出を受けるわけにはいかないわね。」
S「どうしてですか?」
T「あなたが一時の感情で言っているとしか思えないから。」
S「退学したいわけも聞かずに、どうしてそう一方的に決めつけるのですか?」
T「休みがちだったあなたが進級できるように、今まで私がどれだけ骨を折ったかわかっているの?」
会話はまだ続くのですが、さてあなたはこの2人のやりとりをどう思われるでしょうか。
人間態人間の対話になっているのでしょうか。それとも「退学」がテーマだから、先生と生徒という役割でのかかわりで良いのでしょうか。
ある出会い
私事で恐縮ですが、かつて私は人間関係のトラブルの渦中にあって、身も心もボロボロになり、生きることをやめようかと思い詰める日々が続いていたことがありました。
このままではいけない、とにかくふんぎりをつけなければと、友の経営する理容室にフラフラと出向きました。私の様子が変だと気づいた友は父親である老いた理容師さんを私に引き合わせてくれました。氏は私の顔を見てなにかを察知されたようで、静かにご自分の半生を語り始めました。戦争、各地への転戦、そしてシベリア抑留。壮絶な苦闘の連続…。聞いていて私の体に何度も強い衝撃が走りました。衝撃のたびに私の心にこびりついていた垢がボロボロと落ちていくようでした。それまでつべこべと屁理屈を言い、恨み辛みを並べ立てていた自分が恥ずかしくてたまらなくなりました。「先生」などと呼ばれて増長しきっていた自分、自分の正当性ばかり主張してきた傲慢さ、いつのまにか反吐がでるようなイヤな自分になっていたのです。氏の人となりを知って私は救われました。
そして氏の人生を貫いてきた「気働き」というものを心に受け継ごうと強く思ったのでした。
人からよく思われたいという意識を捨て、今自分ができることを精一杯やってみよう。人からなにかをやってもらうことを期待することをやめよう。自分で無くそうなんて思っていたこの命。死が訪れるまで思い切り命を使い切ってみよう。
そんなことを感じることのできた素晴らしい出会いでした。
今でも、ふと怠け心が起きると、この「気働き」を思い出します。
そして、何より私がうれしく思うのは、この人間関係へたくそ人間がそれなりに自ら人にかかわるようになり、「どうせ俺なんていなくたって」というような自己否定的な考え方から脱皮できて、以後、対人関係で孤立することがなくなったことでした。
死ぬまで生きよう
どうせいつかは死ぬのだから、贈られたこの命を抱きしめながら暖めながら生きていこう。
たったひとつの命だから、そしてたった一度の人生だから、思い切り自分らしく生きていこうよ。誰のためでもない、自分自身のために思い切り命を使って生きていこうよ!