買えないのではなくて、計画的にすること

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かみさんのブログで「日本経済はオワタからマンガを買えない」という、究極的に中間を省略されてしかも前提も結論も間違っていることを書かれていたので、ここできちんと説明をしておこう。いや、誰に説明するわけでもないんだけど、自分の考えていることをまとめておくという意味で。

と、思ったけど長ったらしい説明はやめた。
自分で検索すれば、いくらでも情報はあるものね、今の時代。
気が向いたら、自分の感じていることとして、まとめてみようと思います。

でも皆さん、やばいなぁって感じませんか?
感じないのだとしたら、それは相当幸せな暮らしをなさっているということだと思う。

なにがやばいって、ほとんど全部。

ウチだって、マンガとか買いまくってるように見えるかもしれないけど(実際買いまくってるけど)、無理してまで買ってるわけじゃない。
ほしい物を実現するためには収入を上げればよい。
収入を上げるためにはアレとコレをすればよい。
この論理でいままで生きてきたし、実現してきた。
だからマンガくらい買えるんですよ。でもね!
これ以上、今と同じやり方で収入を上げたりするのは、もう難しいと思う。
経済がオワタから。
そして外国の資本だって、あえて日本に投入する強い理由があるか?
といったら、ないでしょう。
これから、さらに大変なことになるはず。
二極化はさらに進みます。
社会は荒れます。
政治は助けてくれません。
軍事力もありません。
税金はどんどん高くなります。
年金はもらえません。
老人が増え、子供が減ります。
仕事は減ります。

だから、安心してお金が使えない。
安心して使えないから、経済がまわらない。

結局のところ、やばいのは分かりきってることなのに、いまだに
「本当にやばいのか、実はそれほどやばくないのか」って議論が盛り上がっちゃったり、
「やばいけどどうしようもない、改善の方向に向かっていない」事実に落胆したり。
残念すぎる。

挙句の果てには、やばい事実から目を逸らして生きている人の何と多いことよ。

結局、自分主義なんだな。
相手の気持ちとか考えない社会があったからこそ、こうなったのであって。
このような危機感については、このブログでも2001年から何度か書いてきたこともあるけど、ここ10年以上の間ずっと感じていながら「どうにかなる」みたいな気持ちもあったといういうか。

なんかもう、夕焼けの河川敷を大根のはみ出した買い物袋をさげながら、のんびりとなごやかに家族で手をつないで歩くような光景には、もう出会えないような気がするのです。

ここまでくると、日本を捨てるのか、それとも、最後まで踏ん張るのかという選択肢になってくる。

政治的な国境こそあれど、経済がここまでグローバル化している現代において、国境について語ることがナンセンスになりつつある。
だったら、どこで暮らしたっていいわけで。
もっと、精神的プレッシャーや生きていくことや老後のことに不安を感じずに生きていける場所が、日本の外にあるんだから、出て行っちゃえばいいじゃん。
っていう自分と、
それを無責任で身勝手な行為だと思う自分の間で葛藤しとるわけです。
だって日本好きだし。
愛国心について教育されたことなんて一度もないけれど、この国に生まれたことに誇りを持っているわけですよ。
先人達の築いてきたものを、放置していっていいのかという思いがあるのですよ。

この葛藤がある限り、いつだってどこにでも行ける状態にしておかなければならない。
常にワーストケースを考えるという意味で。

日本は、最悪の場合、数十年後にはもう
「むかしむかし、日本は大国でした」
みたいな話になっちゃってると思う。
立て直せる根拠が見えないもの。

そうすると、数ある貧乏な小国たちと同じような存在になる。ただそれだけ。
老人がやたら多い貧乏な国になるのです。
蓄えられた富だって、なくなります。

「カネがあるからいいじゃん」じゃ済まない。
日本からは、カネがものすごいスピードでなくなりつつあるのだ。

カネが人を幸せにしたかというと、それもよくわからないしね。

話を戻すと、いつだってどこにでも行ける選択肢を確保しておくためには、もしかすると特殊な教育を受けるために学費が必要になるかもしれないとか、社会保険のない国に行くことがあるかもしれないとか、引越しするかもしれないとか、物価の高い国に行くかもしれないとか、そういう可能性を考えると、ある程度の可処分所得を増やす努力と、資金を貯めておくことが重要だ。

だから、計画的にお金を貯めよう。
だから、マンガも計画的に買わなくちゃならない。

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