承認欲求というのには2種類あるんだってさ。
ひとつはよく知られている「誰かに承認してもらいたい」という他者承認で、もうひとつは自分自身に認めてもらう自己承認。
自己承認というものは、自分の理想とする自分、完璧だったらこうだっただろうという自分と現在の自分を対比させて、自分で自分に信用してもらうという無茶なことをして結局どこかで失望することらしい。たぶん、だいたいそんな感じ。
認めてもらうためにやってるわけじゃないけど、やはり認めてもらう機会がないのはつらい、って思ってる時点でなんだかもう不純というかあさましいというか、結局のところ存在を認識してもらって自分がそこにいる意義を他人に押し付けたいだけだろ?ってことになる。
そう、そうなんだよ。
承認欲求が満たされればそれで幸せなら、満たしてもらえるように頑張る。それで何も問題ないよね。
……ほんとに?
おそらくね、人はそれぞれ違うものの見方をしているから、あなたが思うほど他人はあなたを評価していないかもしれないし、そもそもあなたのことなんて、よく見てないかもしれない。
「こんなに頑張っているのに」
「こんなに貢献しているのに」
「私、間違ってないのに」
「どうして?」
そういうとき、自分の手を胸にあてて、深呼吸する。 それは、風通しの良いビルの屋上とか、神社の参道の木陰とか、そういうところだと、効果抜群なんだ。
「私はいまここにいるじゃん」
「私、頑張ってるじゃん」
どこかの誰かに、あるいは自分の理想の姿に認めてもらうために頑張ること。この弊害は、認めてもらっているという実感がないと、路頭に迷ってしまうこと。
ところで同時に、他者を理解することが大切ともよく言われる。 他者によって承認してもらいましょうではなく、あなたが他者を承認しましょう、みたいな。 あなたの主観だけではなく、もっと大きな視点を変えて、相手のことをよく理解したいですね。 ……これって過程として「あなたを認識していますよ。理解しようとしていますよ。みていますよ」ってを本人に知ってもらうということがあるので、それが承認欲求のある相手に伝われば、本人がいちばん求めている燃料そのものになる。
だからやっぱり、欲求と承認は、生きていくことと切り離せないわけ。
……ほんとに?
僕はいろいろと承認欲求があるほうだけど、やっぱり他者を完全に理解することなんて絶対無理だから、承認というものは理解しようと努力することなんだよね、って思う。とくに病気については、とりあえず横に置いといてほしい。その上で健常な人と比べて、どの程度評価してもらえるのかが大事なんだよなー。病気に甘えてるということとは全く正反対で、病気だからなに?そんなの関係ないじゃんって言ってほしい。
でも実はそんなことはどーでもいいのだ。
他人にも自分にも承認してもらう必要などないのだ。
わかってんだけど、自分が認められているかどうかを気にしちゃうのは、集団生活を前提とした社会人として仕方のないことだ。
でもまあ適当にやっとかないと、めんどくさい。
逆に言うと、適当にやっとけばいい。
承認欲求は絶対に満たされないものなので、なにか他の基準を使って生きていけばいい。
自分に甘くして、明日できることは明日やっていけばいいんじゃないか。
それは不真面目とはちょっとちがう。
そして、相手が承認欲求を持っているか持っていないかにかかわらず、きちんとあなたの信号を受け取っていますよ、それに対する私の反応はこうですよ、と表現することは、自分にとっても相手にとっても大切な心の通じ合いなんだなーとは思う。
それをよしとしないストイックな世界もあるし、それも認めるけどさ。酒井雄哉大阿闍梨のように他者のすべてを受け入れ、自分には極限まで厳しい人間になりたい。やっぱり厳しさは自己に対して持つべきものであって、他人に対しては限りなく優しくしたいものだ。
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