短絡しないこと

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何事においてもひとつの答えを求める風潮があるように思う。最近それを強く感じる。

答えはひとつではない。ひとつの解を求める癖をどうにかしないと、真実は見えてこないと思うのだ。

たとえばトランプ氏が大統領選に勝利し、様々な憶測が様々な観点で交わされている。それにしたって今ここで日本人としての我々が考えるべきことと、地球人として考えるべきことを混同してはいけないと心している。民族主義とは何なのか、民主主義とは何なのか。現代における経済的・文化的・政治的な国境のあり方とは? 国防のあり方とは? 国は何を恐れ、国民との乖離は何か?未来への恐れからくるシステムは何か?その恐れを少しでも解消するためにとめどなく資本を注ぎ込まねばならない、完全に閉じたシステムであることを今一度理解しなくてはならないのではないか?

セキュリティ、セーフティは当然ながらコストがかかる。我々はどこまで担保すべきなのか。この世界から戦争をなくすためには、北風を吹かせ続けるわけにはいかない。この世の富が一部に集中するのは、恐れを逆手に取ったシステムのせいである事実であることをそろそろ受け入れ、行動に移すべき時が来ていると僕は思うのだ。

夢のようなテクノロジーも発展も、それを使う人間の心の持ちようでどうにでもなる。輝かしい未来を描くこともできれば、冷え切った暗い未来を描くこともできる。軍事、医療、生活、文化、そして、お金。資本主義、民主主義。我々の課題はもはやテクノロジーだけで解決できる段階にない。

行き着くところは失うことへの恐れという、かなり低い次元の話になってしまうのだ。それをもたらしているものは何者か?戦略とか陰謀論とかそんなこと言ってもそれは真理ではなく、個人の思い込みに頼りたいという気持ち、つまりエゴそのものだ。赤信号はみんなで渡っても安全にはならない。

かといって悲観的な解しか捻り出せないようでは、所詮お前はそこまでしか考えられないのか、ということだ。

大きな話をしているのではない。これは結局のところ、我々一人一人が日々感じること、受け止め方、思考の罠だ。日々の感謝というとてもシンプルなこと。隣人を愛せずして隣国は愛せず。隣国を愛せずして世界に愛はもたらされない。あなたやわたしの一瞬一瞬に答えがあるということに気づき、せっかく与えられたその脳みそとハートをフル回転させて考え、行動に移すこと。なにも革命をしろと言っているわけではない。人を変えることは不可能だが自分を変えることはできる。

僕は変化が大好きな人間だが、他人を変えようとは思わない。それは不可能だからだ。変えるなら、まず自分が変わるしかないのだ。

考え方に多様性を持たせることで、様々な視点が生まれる。視点をたくさん持つことは柔軟性を持つことそのものであり、直観力や共感力を活用することにつながる。利己でも利他でもない、中庸を知るためには、すべての可能性を考え抜く、つまりそのシチュエーションになりきるパワーを使う覚悟が必要だ。

考え方に多様性を持たせるためには、思い込みをひとつひとつ捨てていくしかない。頑ななイデオロギーやジンクスに囚われた心は、なかなかそれに気がつくことができない。愚民であることから脱するためには、常に自分の考えに疑問を持ち、それは同時に他人の考えにも等しく為されるべきである。

「性格だから」とか「決めたことだから」とか「常識だから」とか「ルールだから」とか「定理だから」といった言葉で結論付けた時、あなたは、わたしは、柔軟性に富んだ思考を放棄している。
真実は常に自分の中にある。その言葉を信じられないあなたにはまだすべきことがあるし、その言葉を当たり前すぎると思うあなたにも、すべきことがある。常識を疑え。

そしてひとつの事象を生み出す原因は常に複数あることを感じることが肝要だ。答えは無限にある。あらゆる割合で分布している。ひとつの答えに固執した時、人は進化を止めてしまう。あらゆる可能性を否定せずに受け入れてみると、真理が見えてくる。その時に芯となる心の持ちようについては、多くの偉大なる先人たちがすでに何度も伝えてくれている。受け入れがたきものの中にこそ答えへの道筋がある。

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