春近く、カフェに向かう道もポカポカ陽気。
生きていればいろんなことがあるものだ。今日は2つ、とても悲しいことがあったけど、いいこともあった。悲しさを増幅しても溺れても良いことはひとつもない。ただ悲しんでいる自分を見つめて、心が勝手に処理してくれるのを待ってる。
何度も記憶をたどる。不義理なことはしていなかったか。筋の通ってないことを言ったり行ったりしなかったか。何度シミュレーションしてみても、やはり同じ結果にしか行き着かない。こうして繰り返していること自体、自分のとった行動やそれを支える価値観に対する信頼をしていないような気がして少しばかり恥じらいを感じた。
事実は全て自己責任。素直に受け止めよう。
もっと理解したい。もっともっと理解したい。世の中のこと。あなたのこと。自分のこと。あの人のこと。あの謎のこと。空の青さ。宇宙の広さ。人の心の不思議。この世界。
僕はすべてを愛してる。出会ったすべての人たちに対して幸せを願うばかりだ。過去にあったすべての現在で、幸せを願っているからこその選択をし続けて来た。それでも誤解されたり、愛する人たちから逆に恨まれたり、伝わらない悲しさで胸がいっぱいになったりする。
まるで他人に、僕の中に存在しない悪意があたかもそこに存在すべきだと押し付けられているようだ。僕の中に悪意があるに違いないと思われていて、存在する前提を勝手に決めつけられて、その前提の上で話をされている。
胸の内を開いて見せられるものなら見せたい。
僕には悪意はない。ただ時には悪意に囲まれたり無理解や無関心の渦の中に飛び込まざるをえなかったりして、どうしようもない条件の中で僕が最善と思える選択をして来ただけだ。自分の中の誠実さを限りなく高めていくためにあえて妥協せずに勇気を振り絞って取ってきた行動が否定されたり恨まれたりする原因になると、こんな僕でも心のある人間だから泣きたい気持ちになる。
こんなこと昔から繰り返されてきたから、わかってるんだけど、きっと永遠に慣れることはない。むしろ慣れてしまってはいけないことだ。僕は自分の心を失いたくない。人を愛することの意味について突き詰める自分を失くしてしまったら、生きる価値がないと思ってる。一番大切にしていることなのだ。
大切なことは何重にも巡る螺旋の先にある。ぐるぐる回って回って、近づいていくものなのだ。
愛するもののために突き詰めて取った行動は、きちんと理由があってこそなのだ。その理由を知って欲しいなんて言ったことない。でも知らないなら知らないで、知りもしないのに否定されるのは苦しいからやめてもらいたい。否定したい気持ちがあるのならば、きちんと話をする機会を与えてほしい。
やはり愛の対義語は、無関心なのだ。
理解しようとすることは努力とか苦しみではないと僕は思ってる。理解こそが愛だと思う。理解できなくてもそのために好奇心が勝手に燃え盛る。知りたい。知りたい。そして関わってくれる愛があるのならば、知ってください。裁定するのはそれからではないのですか。
この張り裂けそうな胸の内にあるすべてをどこにもぶつけることはできない。自分で自分を、いまここで赦す。それは、責任というものを属人化させることには何の意味もないということです。関係性の中に生じる責任は、関係性の中で相互理解という形に昇華させる以外に幸せはない。
心を狭くして生きていたくない。
心の豊かさの先にこそ真の理解へ向かいたいという願望があり、理解は決して人を傷つけない。無理解は人を傷つける。
いっそ、誰にも行き先を伝えずにこの国を飛び出して、遠い外国で新しい暮らしを立てようかなんて思いたくなることもある。でも僕はそれができないこともわかってる。逃げることは意味がない。僕には愛国心とかそんな言葉はわからない。でも自分の信じてることから逃げたくないだけなのです。
今日だけは悲しさを胸に抱えていることを自分に許そう。
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