政治的なことを書くことは滅多にないが、書こうと思ったきっかけは、グローバルダイニングに対する東京都の自粛命令を巡る報道だ。
日本はいま民主主義の危機にも瀕していないし、右傾化も左傾化もしていない。そこまで主体化していない。理念や主義主張を根拠とした変革がないということだ。
日本は「ご都合主義」。
アメリカがご立腹ならアメリカにブレ、中国と危機ならば中国にブレ、国民の批判が沸騰すれば票に影響するから強い世論にブレ、経団連が強く出ればそっちにブレ、マスコミが騒げば報道にブレる。
江戸時代、日本は鎖国によって断絶されたユートピアを目指した。そのユートピアの破綻は必然である。なぜなら維持のために課された条件が永続的ではなかったからだ。資本的にも資源的にも政策的にも木を見て森を見ない判断が江戸民俗文化醸成の土台にある。
日本人の性質はそれから変わっていない。歴史に学ぶということはそういうことだ。
これが悪だと断定することはできない。いまどきデモも管理され、一揆やクーデターも起きそうもない。
平和とはいったい何なのか。
現代日本における平和の定義とは現状への満足と観える。
グローバルダイニングの主張は表面的には社会や政治の問題へ鋭い切り込みをした英雄的行為に見える。世論はこのようなアプローチに弱い。しかしよく観察してみればポジショントークだらけだ。そうであるかないかは、事が起きた時ではなく、日常の行動の違いでわかるものだ。また一方で東京都の行動も理念や信念によるものではないことが透けて見える。
問題は、平和ボケ前提の日本であると世俗的観念から生み出される主張と、失われた数十年を経済的観念でしか推し量れない資本主義の部分的適用をもとにした主張の両者が見ているポイントが異なるところだ。どちらもご都合主義で、エゴ丸出しなのだ。
このような情勢にどう関わるのか。答えは、関わらない。
汚れたものには触れず、信じた美を追求する。命の使い方に対する覚悟の問題だ、と僕は思う。
商いの本質は生業である。商業と商いの間には埋めようのない溝がある。
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