Let’s look at the brightness

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近所のラーメン屋で味噌ラーメン食べてたら、店主と常連客の会話が耳に入る。

持病の愚痴、交通機関の愚痴、コロナワクチンの愚痴、行政の愚痴、その他様々な愚痴。

せっかくまともな味のラーメン作ってるのに(見た目はイマイチだったけど)、もったいない。

店も散らかりすぎ。不衛生。なのに体温測定だけはきっちりされました。

コロナワクチンの話題はどこにでも出てきますね。

素朴な疑問があるのですが、みなさん、未知のワクチンを身体に入れることについて怖いとか不安とか思わないのでしょうか。

僕は怖いので、色々調べます。調べて、どう思うかは人それぞれかなと思うのですが、今までワクチン打つことを怖いと言った人は僕の周りに1人しかいません。

なんとなく感覚だけで判断しようとすると、人間の脳はとんでもなくズレた判断をしがちです。

ワクチンを打つことってそんなにメリットの方が大きいのでしょうか?

僕は一昨日(2021/05/24)、心筋梗塞からまる2年経ちました。あの日から2年もボーナスをいただいたのです。振り返ってみても毎日が新しい体験と素敵な思い出だらけで、生きてきた幸せで思わず笑顔になってしまいます。

コロナワクチン、他、様々なワクチンについてその実効性などについて長年、独自研究をしてきました。

結果、僕は自分の直観にしたがって、コロナワクチンは接種しないことにしてます。直観なので、理由を聞かれても困ります。

僕は死にかけたあの日から、幸せに生きる日々を約束されていることをしっかり受け取っています。(みんなそうなんですよ)

つまり流れのままにそれを受け止めて生きれば、それが正解だということです。迷いが全くありません。それで死に至るならばそれも僕という人間の運命として受け入れます。

健康診断も受けません。

健康診断を受けて幸せになった人をひとりも知りません。

病気というものを奥深く、量子レベルまで掘り下げた話を適用する人はごく僅かながら僕以外にも存在します。

理屈がわかっていない人には魔法やオカルトにしか感じられないと思いますが、『病は気から』という言葉が示すように、病は気から起きます。つまり病気になる人は自分が病気である可能性に賭けてしまっており、それが検査や症状等を通じて現実化しているだけです。症状すら、捉え方ひとつでプラスにもマイナスにもなり得ます。

物質というものは、すでにそこに存在しているのではなく、観察によって物質が存在するということが科学的に証明されてから何十年も経っています。

観察は意識があるために起きます。意識とは我々のフォーカスです。それをどう処理するのかによって現実が追従します。この処理は、形而上とか無意識と言われる部分で行われています。無意識とは具体的に言えば、心で本当に信じていることです。

「私は病気ではない」と強く念じれば念じるほど、病気との距離が近くなるということです。なぜなら自分の健康を心から信じて疑わない人は「私は病気ではない」などと念じることをしません。

自分の行動が、自分の深層心理でどう処理された結果であるのかを知ることは有用です。

お金が欲しいと考えたら、お金がないと思っている証拠です。

信じるということは、盲信とは異なるのです。

ワクチンが必要ないというのは、

  • ワクチンなどなくてもわたしは与えられた使命を果たすことができるという確信(なぜなら叡智によって与えられた命には必ず意味があるから)
  • ワクチンを打たずに死ねば、それもまた必然
  • 流れに逆らわないことが常に最良の結果を生む
  • なぜならば逆らうことはストレスを産むから
  • ストレスは視野狭窄を引き起こす
  • 視野狭窄は、知的活動ではなく教養的な部分で間違いを生みやすい

愚痴をやめないこと、不安を抱え続けること、こうしたことは毒です。

毒は外に出してやると楽になります。

僕は相手の毒を出す方法をいくつも知っていますが、出しても出しても毒を溜め込む人は、思考停止状態です。警告を聞かない人はもう、こっちもやってられないので距離を取るしかありません。

距離を取る決断は常に悲しみを伴います。

それを乗り越えてさらに強くなる流れもありますが、己の力不足は、更なる好奇心のエネルギー源になります。

でも最近よくよく自分と向き合ってみたら、僕の好奇心は外部の出来事によって増幅されているように感じることはあれど、実際にはそうではなく、自ら起こしているものだとわかりました。

僕は他者との共感を息をするように簡単に引き起こしてしまうので、相手のモチベーションやエネルギーを理解するために一時的にそうなっているだけなんだなと、わかりました。

共感状態から戻る唯一の方法は、死生観をフラットに持つことです。わたしたちは、三次元的に言えばエントロピーに逆らうという見かけ上の存在です。

死に対する恐怖を乗り越えなければ、理解できないと思います。死に打ち克つためには、臨死体験をしなければならないわけではありません。十分な観察力と感受性と理解力を可能にするリラックスした自分だけの時間を十分にとれば、擬似体験は様々な形で可能です。しかしそのためには、内なる探究を要します。

何より簡単なのは、とにかくやってみることなのですが、頭で考えてしまう素直じゃない人には無理ですね。

言葉から変えていきましょう。

ネガティブな言葉を使わない。先延ばしにする言葉を使わない。他者のせいにする言葉を使わない。

それだけで間違いなく変化は始まります。

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