「どんなに苦しくてもお前の選んだ人生。まさか人様に迷惑をかけるなんてとんでもない。あんた自分の魂に誓ってしゃんと生きてるって胸を張れるんかい」
身内という言葉の定義がわたしの価値観や願いを少なからず理解してくれている相手とするのならば、わたしは身内にそう言われたい。お疲れ様とか理解してますとか、そんな甘い言葉を欲していないのだ。それを伝えてくれる人は世の中に星の数ほどいるんだよ。誰にでも口当たりの良い言葉。そして本質的に、僕を甘やかしたり足を引っ張ったりするだけで、何も役に立たない言葉。僕のことを愛してるかどうかなんて、口にしなくても常に態度でわかってるんだから。甘い言葉は要らない。愛してるならストレートに愛してるよとか好きだよとか言ってくれたらそれでいい。
生への執着と、生に懸けることの違い。それは、誰が為に生きるぞ、である。己をすり潰してしまえばこの世に恐れるものは何もない。「わたし」を「私」と解釈してその存在について思うことをすれば我欲に繋がること必至なのだ。
慈悲こそが和多志にとって崇高で、いのちを懸けるに値する価値である。
慈悲は心を奥を突き動かし、生きるパワーを、エネルギーを、湧き立たせる。
愛(アガペー)と慈悲。
和多志は暗闇に燦々と輝く星のように。輝いているのは誰かを魅せるためではない。恒星にとってエネルギー反応は待ったなしの摂理なのだから。
命を燃やすことが摂理であるのならば、皆もそうに違いないのである。ある者は藻に足をとられ、ある者は何かに視界を遮られており、それが輝きを認識させないだけのことだ。凡ゆる視点で生命は等価に作られているのだ。わたしだけ、とか、あなただけ、なんてことは存在しない。妬みや羨みはすべて、幻を創造している己の産物なのだ。
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