この記事読んだ感想
「わかってねぇなぁ」
僕が宿題をやらなくなったのは小学校2年生の夏休み以降。
小2の夏休みの宿題をやらずに2学期を迎えたのですね。
自由研究だけは、やりました。
そしたら先生に叱られたんですよ。
あ、そういうことね。と思いました。
叱られるだけで済むわけです。
そりゃそうだよね。学習って自分のためにやるわけで、
先生に叱られないためにやるわけでも、褒められるためにやるわけでもないですからね。
小3になり担任が違う先生になって、
同じように宿題をやってこなかったら、
親を呼び出されました。
母親は僕を叱ったけど、父親は何も言いませんでした。
なんで、興味ないことをやる必要があるのか、僕にはわかりませんでした。
学校の宿題の多くが、意味不明。
どうして、もう覚えている漢字を何度も何度も書く?
どうして、もう知っていることをやる?
小中学生の頃はとくに、既に知っていることを知らないふりをしないと機嫌が悪くなる先生がたくさんいることに辟易としていました。
だから、興味ないんです。
興味ないことは、小学校2年生以降、やらない方向になりました。
興味あることだったら宿題にされなくてもやるから。
自由研究とか、普段自分がやってることを発表できる場なんてそうそうないから、楽しかった。
自主的な自由研究を学校で話したり見せたりしても
反応は「ふーん」ですよ。
そりゃそうです、僕が興味あることやってるわけで、
話を聞かされる友人は興味ないことだったりするわけで。
もっとめんどくさいのは、
「なにそれ、頭いい自慢?」
とか言われちゃうやつ。
そういう経験してると、
「もう二度と自分の興味の話はしたくないわ」
って思っちゃう。
でも話さないと、同じようなことに興味がある人が見つからない。
学校の先生も、多くの場合は上から目線で
「えらいね」とか抜かします。
いや、そうじゃねえから。
褒めてほしいんじゃなくて、この自由研究について先生の意見が欲しいわけ。
そこを突いてきてくれた先生は、小学5年生〜6年生の担任をしてくれたM先生だけだった。
そんでもって、興味がない宿題をやってこないと
人間的にクズであるという扱いを受けたりする。
「約束を守れない人間はダメだぞ」とか言われるけど、
「宿題やるなんて約束、してねーから。先生が勝手に押し付けてきただけだ」って思ってた。
そうこうしているうちに、宿題もできない「注意欠陥」とか言い出す先生が、たくさんいるわけでしょ?
で、宿題をやらないということについて、僕は思うわけ。
宿題やらないならさ、成績くらい十分にしておこう。
そうしないとアホ扱いされて終わるから。
そういうわけで、中学時代の成績は学年で1位か2位を外さずにやってきたのでした。
ところがね、やりたくないこともあるんです。
どうしても興味を持てないもの。
そういうことには一切、労力をかけなくなった。
興味を持てない理由は、きちんと考えました。
愚かな判断で興味を持っていないだけかどうか、自分なりによくよく検討してみたということです。
- 興味が持てない理由が自分のなかでハッキリしたら、やらない。
- 興味が持てない理由が己の知見の浅さ故だと認識したら、そのとたんに興味が自然に湧いてくるから、問題ない。
そんなふうにやっていたら、高校時代は好きな科目しかやらなくなったし、相変わらず宿題はやらなかった。
自由な校風だったので、そもそも宿題を出された記憶がないけれど。
しかし自由で先進的だった我が校であっても、僕の凹凸激しい成績では、僕を低評価せざるを得なかった。
でもね、僕のやり方を批判する先生なんて、ほとんどいなかったよ。
そのままお前の道を行けばいいって言われるほうが多かったかな。
高2でアメリカ長期留学して、僕はアメリカの高校の経験をしたわけですが、そこはまさに、僕が求めていた学校のあり方をやっていました。
まず、授業が選択式です。
必須科目はあるけれど、とても少なかった。
一週間の時間割を自分で決められるのです。
美術系のクラスをいくつも取ってる友人もいたし、数学系のクラスをたくさん履修している友人もいました。
「本当に高校生?」と思えるような、見た目が小学生か中学生にしか見えない友人がいたんだけど、年齢を聞いて納得。飛び級してきたわけです。
逆に、20歳を越えている同級生もいました。でもみんな、何とも思わない。
アメリカでは、幼少時から高校生くらいまでを通して「自分が好きなもの、得意なものを見つける」のがベストという風潮がありました。
苦手なものを嫌々やって克服なんてできるはずがない。
そういうことは、大人にとっても生徒にとっても、ごく当たり前のことでした。
いまの日本の小中学校にもし僕が入学したら、発達障害とかADHDとかいろんなこと言われるのだと思います。
でもアメリカだったらそれは「普通の子」です。
子どもなりに、いろいろ自己判断で決定していることを、大人は理解できていない、そう感じることは日本の学校ではしょっちゅうありました。
まだ子どもだから、自分の決断の根拠をうまく相手に説明できる人が少ないだけで、けっこう多くの子がきちんと論理も感性もフル活用して、自分で判断しているのだと僕は信じているのです。
損得勘定しか見えなくなってしまっているような人や、感性を失って直観が働かなくなってしまっているような人は、大人にこそ多いと思います。
「大人という病気」だと僕は思っています。
じゃあお前の結果はどうなんだ? と聞かれると、僕の人生はまだ途中だから、結果なんて知らんとしか答えられません。
なにか実績を出したのか? と聞かれると、そういう質問をしてきた人に議論のレイヤーを合わせて回答するとすれば、親にも言ったことないレベルですが:
- ミシガン大学アナーバー校、UCLA、MITの入学許可もらってた(帰国したので入学しなかった)
- 数学・化学・物理のクラスではアメリカの高校で成績トップだった。現代アート・詩でもトップクラスの評価だった。アメリカ近代史は、素養がなく苦労した。国語(英語)も苦労した。
- 日本の大学は、迷いに迷って入ったけど、面白くなさすぎて1年ちょっとで辞めた。
- 大学中退で、GAFAのひとつからオファーをもらうまでになった(中の人たちにインタビューして、結局どこも変わらないなと思ってオファーは辞退した)
- 自由にやりたい願いを叶えるために、結局自分で会社を作ることになった。
- 会社経営はとても大変だし難易度の高いチャレンジの連続だけど、満足できるレベルに成長曲線を描いている。
この文章を読んで、また小学校の頃のように
「なにそれ、頭いい自慢?」って思う人もいるんだろうな。
僕が伝えたいことは、そういうことじゃない。
出る杭を打たれて自信をなくしてしまっている人に伝えたい。
「頑張れば世間一般の人並みな暮らしができる」と教え込まれてしまっている人に伝えたい。
あなたの可能性は、唯一無二であり、それを信じれば、できないことは何もない。
常識に捕らわれてしまわないように。
スティーブ・ジョブズも言ってました。
「ドグマに囚われるな」
「Stay hungry, stay foolish」と。
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