会社としての存続意義。
会社である必要性。
責任感や連帯感って実際どこまで必要か、とか。会社という括りがないと責任感や連帯感は継続不可能なものであるのか、とか。
正直、会社運営はしんどい。
当社には自分を含めて3名の役員がいるが、従業員は雇用していない。
会社の存続や運命を決める要素がいくつもある。
例えば給料(役員報酬)。これを得るためには当然ながら事業が必要だし、事業にはアイデアを創造すること、想像したアイデアをぶつけ合い議論を積み重ねることによって取捨選択したりブラッシュアップしたりすること、適切なタイミングでそれを具現化するために事業計画や企画に落とし込むこと、それを実行する期限を設けて実行していくことなどが求められる。
失敗を恐れていては失敗する。失敗を恐れていなくても失敗するが、失敗によって得るものを積み重ねていかないと成功はない。
行動が大事なのはそのためだ。
人を動かすのは難しい。デール・カーネギーの「人を動かす」という有名な著作に書いてあることは結局のところテクニカルであり、自分の実には慣れどそれをそのまま人に押し付ける形は洗脳に近いからそうはしたくない。
となると会社を存続させる意味について答えは絞られてくる。
- ひとりでは成せないことが成せるシナジーがあること
- それがないなら個人事業の集合体で良い
目の前に仕事があるとしよう。
この仕事を主体的にこなすとはどういうことか。早期完成のために取れる選択をどこまで躊躇なく取るか。なぜ早期完成するのが良いか。収益が早く出るので存続確率が上がる。充実感がある。どんどん次のステップに進められる。
副業。ここでは何が本業で何が副業かはどうでもよい。二つ以上の組織で仕事をすることについて。
仕事をする理由はひとつではない。思いつくだけ並べてみる。
- 生活費を得るため
- より豊かなものを金で得るため
- 目的実現の資金を貯めるため
- 人の役に立つため
- スキルや経験を身に付けるため
- 描いた未来を実現するため
- 暇つぶしのため
- 自分が好きなことをやるため
他にもたくさんあるだろうが、「仕事は結局金のためである」とか、「仕事は人の役に立つことに意味がある」とか言った言葉は、極端であり端的すぎて本質を突いていないと思う。
わたしたちが生きることと仕事は不可分である。子育ても仕事だし、心臓が脈動するのも仕事である。同様にして「社会」という群構造がある限りそこには仕事がある。法律を遵守するのも仕事だし、憲法を遵守する国家を運営するのも仕事である。死に方を生きているうちに選択するのも仕事だし、献血や献体も仕事だ。遊びも仕事だし、寝るのも食べるのも仕事だ。
不可分のものを無視することはできない。識るということはそれがたとえ意識されていなかったとしても無意識に行動を抑制したり促進したりする。
願いがあるなら自ら道を歩むこと。それが、背中をもって指し示すということにもつながる。
自分がやれないことを人には推奨できない。自分がやれたことはやれたというひとつの事実で相手の個人的定義や個人的定理にヒビを入れるポテンシャルはある。
自由と不自由については、自由を知るには不自由がどんなものかを認識できる必要がある相補関係だ。
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