ボトムアップとトップダウン。このどちらが重要かという問い(0か1か)にはまったく意味・意義がない。そのどちらも何かを証明するために(可能性を高めるために)重要であることは間違いがない。問題はこのどちらが先に起きるかである。単一の知性において直観は常に先にあり、理論はあとから。現象は観察から。観察は直観に基づく。わたしたちの直観は単なる幻影ではなく、意味をもっている。トップダウンで起きるさまざまな意識的体験は無意識を含む外部からクオリアとして降りてくる。これは我々人間としてのUIに対して認知可能な状態として表層化すると言い換えられる。
ボトムアップにおける推論の枝分かれと、トップダウンにおける原因の枝分かれは時系列的に逆の筋道を辿っているだけだが、トップダウンにおいては経験則的・知識的・感覚的トリガーによって認知が表層化するが、ボトムアップにおいては無限の可能性の中から何かしらの柱を立てて証明をしていくという論理的フェーズが不可欠になる。ところがこの論理というものが非常に厄介な性質を持っており、知性レベルが高ければ高いほど、いくつもの論理がtrueになる道筋が立ってしまうのだ。その場合、どれが尤もらしい論理であるか、論理的瑕疵はないかという論点に立ってしまえば、その論理が本当に筋道であるのかという証明とは別の議論になびいてしまう。
実際のところは直観というものは現実的に「いま」発生している物質的または信号的変化そのものである。しかし意識というものに通信経路がないと断定してしまえば、その信号変化(発火)による発見(波動関数の収束)を体験的に共有できないというジレンマに陥る。これは唯物論的あるいは古典物理学的な解釈であって、このような体験・共感といったものを超論理的見地に立っていま一度分解・構築しなおす試みが、現代におけるさまざまな分野の研究で活発に起きている。これらの「さまざまな分野」における体験の共有というものは、同じものを違う視点で確認する行為そのものであり、エネルギーが集束する。


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