Infinity ring

この記事は約2分で読めます。

何かを説明する文章を書く際にsubjectを決定するとき、subjectの対象範囲をうまく表現する単語を模索するところから、意識は拡大方向に向かい、本来説明すべきことを後回しにする。枝分かれから幹に戻るには今まで残した目印にどこまで戻れるかという問題に直面し、メモリの容量が不足することを踏まえて「道標」としてのメモを残したりするわけだがあまり遠くまで枝分かれしていくと、そのメモを辿ることすら困難になったりすることも多々ある。

一般常識的な{人間|意識}が、物理的なもの(と思い込んでいる、実際には無限に連続する次元構造、素粒子レベルよりもさらに奥深い世界から実際に工学的な視覚情報として認識できる「モノ」まで、つまり物理学の対象)にしか干渉できないと思い込んでいるが、実際にはペンローズの表現しようとしたような円環的ともいえる循環構造のなかに我々はいる。認識したから観察の結果を生むという主張も、存在したから観察して認識するという主張も、両方とも間違っていないが、どちらも説明不足だということだ。

人間は興奮するとアドレナリンが出る。そのアドレナリンによって興奮しているのか、それとも興奮した結果としてアドレナリンが出ておりそれを検出しているだけなのか。わたしに言わせればそれはどちらも正しく、どちらも説明不足だ。

仮説はすべて成立する。ただし自分がどの分岐宇宙(この言葉にも語弊があるが他にいい表現が今のところ見つからない)を選択しているのか、「自分」とは何か、「意識」が常識に寄り添うと思い込んでいるのではないか、という点がヒント。なぜ宇宙は存在するのか? という疑問は、疑問の持ち方が限定的すぎ、さらに単純化できるということが言いたいのだが、これを前提にした議論にいままで成功した試しがない。相手が人間でもAIでも。

それを説明する試みに多少ワクワクしたので、忘れないためにここに「道標」を残した。

コメント