無邪気だったあの頃

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あれから幾多の苦い人生経験をしてきた。それは招かれざるものではあったが、決して避けられぬものだったわけではない。自分の弱点を誤認識していたことや、弱点を認められなかったこと、弱点に立ち向かう勇気が無かったこと、そして弱点を否定して生きてきたこと。自分のなかの矛盾が生活の崩壊をもたらし、精神を蝕む一歩寸前というギリギリのラインまで自分を追い込んだ。その激しい内面における葛藤や矛盾や挫折を整理するために、実生活においてあまりにも多くの大事なものを失ってしまった。自信に満ちた時代にさよならを告げ、向かい合いたくない弱点に一旦殺され、そして自分自身の可能性に救済された。

同じ原子で構成されていても組み合わせが異なれば物質としての特性は全く異なるものになってしまうように、大きな変化をした。それは内面的なものではあるが、外までにじみ出るほどの変化であり、自分の身の回りに残った自分の過去を知る数少ない大切な人たちの話によれば彼らから見ても僕は変わったらしい。明らかに以前弱点であった致命的な点がいくつか良い方向に向いたし、それはそういう方向を向いただけではなく、劇的な変化だった。とんがっている人間が年をとるとまるくなるという話をよく耳にするが、それが一気に押し寄せたようなものなのだろうか。

いずれにせよ、僕はそうして自分の判断基準でいう大人という形を、意図せずに実践することができた。いまは大分精神的に安定してきたと思う。今残っている不安定さは、若い頃の自分が持っていた脆いものではなく、急激な変化に取り残されているわずかなかけらがところどころにある、それだけだ。しかしそれらは時間とともに無くなっていくものだと思う。こうして僕は成長という過程を自分で意識できるレベルで経験してきたわけだが、ときには無邪気さが懐かしく感じることもある。十年後の自分から見たらもしかするとまだまだ僕の中には無邪気な心がたくさん詰まっているのかもしれないが、2~3年前の自分と現在の自分を比較して考えてみると明らかに無邪気な面が減った。無邪気と一語で書いてもその中には色々な要素が含まれているが、あえて今ここでそれは考えず、無邪気という単語の語感でものを書いている。

自分の文章が最近理屈っぽくなってきた。これは社会人として文章を書くようになったことによる明らかな「デメリット」だ。そもそも日本語は正確で付け入る隙の無い文章を書くにはあまり適さない言語だと思っている。これは言語学上の話ではなく、文化だ。日本語には論理的に無駄な表現もあれば解釈が複数ある表現もあるが、これは日本の文化なのだ。その中の侘びと寂びともいえる心には一言では言い表せない重要性がある。これは短絡的にその文章「だけを見て」ものを考えていては見えてこない事実、だと思う。理系作文能力?くそ食らえ、である。文章に理系も文系も関係ない。相手にどれだけ表現したいことが伝わるか、これだけが言語の目的だと仮定してみても、そこには理系も文系も分け隔てられない言語の世界があるべきだ。では何故分けて考えられてしまうのか。
よく日本語の文章は結果が最後にくるためだとか言われるがそれは違うと思う。古来からの日本語を正しく使っても、結果が最初に来る文章は書ける。結果が最後にくる文章は、もっと新しい時代に育まれてきた現代風の表現ではないか。そして理系文章では、専門用語が幅を利かせる。もちろん文学的な文章における難しい表現も、ある意味日本語という専門分野における専門用語として分類できないこともないが、それと今言っていることはちょっと意が異なる。専門用語は、同じ専門の道に携わるものにとって理解できるものである。これは大前提というか当然だ。しかしそうでないものも数多く見受けられ、理系作文能力を問う人間はそういった本来の専門用語とは異なる用語を濫用する文章ばかり見てきたものだと考えられる。
また日本語には「遊び」が必要だ。これはあえてこれ以上の説明はしない。侘び寂びが必要なのだ。そして最後に、読解力の無い人間に向けて書く文章が一番疲れる。

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