Anima

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昔からたまに自分のすべての感覚がビシッと尖りまくり、脳に何本もアンテナが突き刺さったような状態になることがある。非日常的な空間の広がりを感じる音楽に身を浸していると、そんなときの気分を疑似再生できたような気分になることがあるし、実際にその状態まで(ある意味トランスしてるのかも)持って行くことができることもある。
体温や気温が急に変わったような気分になったり、いま自分がいる部屋が突然ものすごく広い場所につながってしまったような気分になったり、自宅ごと宇宙空間に漂っているような気持ちになるのだ。そんなときの自分は、ものすごくインスピレーションが働きまくって、なにかいろいろと記録しなければいけないものがたくさん頭の中から沸いてくる。それは後になって言葉や記号で説明できるような代物ではなく、そのとき自分が理解するのが自分にできる唯一のことだ。

残念なことに、脳内に描かれた空間をうまく紙に落とし込む能力がなく、脳内に流れる音楽を寸分違わず表現できる能力もなく、ましてや絵や音にすることすらできない気分の高揚感や閉塞感、色彩や音色に伴う心の状態の変化などは、記録する術がない。

記録できないのは仕方がないのだが、ふと「こんな脳内活動状態に再びなれるのは、いつになるのだろう」と考えると、とても切なくなる。
若い頃と比べれば、このような状態に自分を高揚させることができる回数は確実に減っているからだ。まるで同心円を描いているふりをしつつ少しずつ軌道を外れていき、最後には二度と戻らなくなってしまう彗星のように、次の周期が来るときに果たして自分はこの世でまだ生きているんだろうかとか、そのようなインスピレーション(のようなもの)を受け止めることができるほど脳細胞が残っているのだろうかとか、いろんなことがごたごたと頭を巡り、とても不安になる。

この不安定さがまた新しいエネルギーを生み出すのだが、自分のこの不安定さこそが、多くの他人には無い部分であることを痛いほど知っている。社会生活という枠の中では、こんなことは鼻くそほどの役にも立たないことのほうが多い。実際この不安定ささえ持ち合わせていなければ、鬱病の闇に恐ろしいほど長い間脅かされることは無かったわけだ。

しかしこの不思議な感覚というかエネルギーのようなインスピレーションのようなものが常に自分の身近に感じられたからこそ保ってきた「自我」的自分像は、この10年くらいの間にすっかり息を潜めてしまった。それが一体自分にとって自分を押し殺す行為だったのか、新しい自分に生まれ変わる行為だったのかは分からないが、あれは確かに必要な経路だった。そこを通らずんば、今頃この世に命はなかったのだから。

すっかり封印されたパンドラの箱をおそるおそる開けてみる感覚に似ているのだが、最近はそんな自分の恐れている自分自身に触れてみることをはじめた。

そして自分が自分でなかったかのような、不思議な感覚を発見しているところ。

自分が二重にも三重にもなっている。

時代時代で、生きてきた自分の何かが違う。

何に重きを置いているか、軸足がどこに置かれているかの違いが大きいのかも。

自分の内面から衝き上げる感覚に忠実でいるのか、それとも自分の直感に対して素直に生きるのか、それとも外部からかかる決して正常とはいえないバイアスに対して挑戦するかのように、少し異常な反発力を原動力にするのか。

週末は神秘的な場所にいきたいなあ。水と光と山がみえるところがいいなあ。

どこかいい場所がないかと検索中。

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