スパイラル(螺旋)

この記事は約6分で読めます。

最近ようやく春らしいポカポカとした陽気が続くようになってきて、あぁ北半球が温まってきたんだなと地球に照射される太陽光の角度を想像したり春夏秋冬をイメージしながら四季は人生の比喩だなあと思ったりして楽しんでいる今日このごろですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

春になると我々人間の活動もアクティブになりますね。バイクで移動することが多いので毎朝Alexaに今日の天気と最低気温を確認するのですが、最低気温の上昇に伴い電話やらメールやらLINEやらが来る頻度が上がっています。みなさん上機嫌で、用件を話し終えても「ところで関係ない話なんだけど」と前置きがあり、なかなか電話を切りません。こちらとしても用件よりもそっちのほうが面白い話だったりするので大歓迎なのですが、寒い季節の「ところで」は苦しみや悩みの話の割合が大きかったりして、暖かくなってくると吉報などワクワクする話が増えてくるのは気の所為ではないように思います。

そんな近頃たまに思うのは、いったい「引退」とは何ぞや、ということです。

スポーツ選手、政治家、アーティスト、サラリーマン、経営者、ありとあらゆるところに「引退」という単語がついてまわりますね。ジブリの宮崎駿氏も幾度か引退宣言をなさっていますが、相変わらず精力的に活動なさっているようで、巷では引退詐欺なんて言われております。一方で引退なんて知ったこっちゃないと言わんばかりに現役ボクサーを貫く辰吉丈一郎氏みたいな方もいらっしゃいます。

なんかね、法則みたいなものが、あるんですよ。

どんな法則かって? いやなんだかまだ簡潔に説明できるレベルになっていないんですが、ちょっとそれについて書いてみたいなぁなんて春の陽気にそそのかされてしまいまして。

多くの方がおそらくそうであるように、若かりし頃の僕にとって「引退」は他人事でした。しかし30代くらいからでしょうか、僕はある程度意識的に「プチ引退」をするようになってました。この会社でやるべきことは終えたとか。でもそれは明らかに人生の引退ではなく、人生のなかで期間限定・範囲限定してやってきたことの終了宣言のようなもので、俺の人生はまだまだ続くぞって当たり前の上に成り立ってたわけで、いま思うと当時の僕は人生の終焉つまり死についての捉え方が甘かったのですね。天狗になってたような、人生舐めてたような感じがして小恥ずかしいです。

引退についてマジメに向き合わざるを得なくなったのは、2019年です。心臓止まりかけて死にかけたあの経験をきっかけに、「あ、これは、いよいよだぞ」って思ったんです。

入院生活で社会から切り離されていた僕が娑婆に帰ってきたとき、帰ってきた娑婆は僕にとって、古巣って感じがしなかったんですね。なんていうか、本来だったら僕がもういなかったはずの世界。僕が社会復帰するはずのなかった世界。

あのとき死んでたらもう見るはずのなかった景色が広がってて、あのとき死んでたらもう食べなかったはずのものを食べて、あのとき死んでたらもう話すこともなかった相手と、話す予定じゃなかったことを話しているわけです。自分の家だと思ってた場所が、急によそよそしい場所というか、「あ、ここに居てすいません」って感じになって、借りてきた猫みたいになってしまったのですね。

清々しいですよ。自分がそこに居るはず・居ないはずなんて視点はそれまで全くと言っていいほど無かったのですが、世界が急に、自分抜きで進んでいる世界を垣間見させてもらえる映画になってしまったのです。

あれが引退ってやつのひとつの形なんだろうなあと、いまになって振り返ってみればそういう感覚はあります。それで、僕が居なかったはずの世界で僕は何をしてるのかというと、できなかったはずの経験を毎日たくさんさせてもらっていて、もうそれだけでボーナスゲームみたいなものだなって思うと、人生って本質的に楽しいことしかないようにしか見えないんです。本当にそう思います。困難が無くなったと主張しているわけではないんですよ。昔なら苦しんでいただろうことが、天から賦与された、本来なら賦与されなかったであろう経験として、プレゼントされているように感じるようになったのです。

形とか、やり方とか、主義主張とかで他人と衝突することに価値を感じなくなりました。好きなことを毎日させてもらっているだけで幸せです。それは壮大なものではなくて、日々たとえばおいしいお米を食べていることとか、僕と電話で話をしたいと思ってくれている人が存在していることとか、うちの猫たちと戯れるための時間が与えられたこととか、無理難題のような高度な課題を与えていただけることとか、花が咲いているのを見るとか、雨にも風にも負けず毎週荒川に行くと人が集まってきてくれることとか、ふと空を見上げたら美しい月にため息をついたりとか。

こんなふうに、見える世界が変わってしまってから、人生において大きな変化がたくさんありました。

なかでも、いまここで伝えたいことは、諦念についてです。

引退とはつまり諦念にほかならないと思うのです。しかしその意味を知るには「諦念」の定義を明らかにしておく必要があるでしょう。僕がここで言う諦念とは、ギブアップとは違います。「人事を尽くして天命を待つ」のほうが近いです。日々、脱力して物事に向き合うことでもあります。柔道の「柔よく剛を制す」も、うまい表現だなって思います。

願いが祈りに変わる瞬間、なのかもしれません。

死を意識しはじめた30代。46歳で死後の世界の体験入学みたいなことをして、「死の意識」は「死を受け入れること」に変容したのだと思います。考えてみりゃ当たり前のことですよね。誰でもいつかは死ぬ。これ以上明らかなことは、この社会にはなかなかありませんね。それは明日かもしれないし、何年も先のことかもしれない。死期を予め知る権利は、一部を除いてわたしたち人類には与えられていないのです。

こうしてアップデートされた死生観によって、僕は完璧かどうかはわからないけれど以前よりもだいぶマシな、そして個人的には最新型のスタンスを手に入れました。

なにも期待しない。けれど、毎日楽しいことしかない。

幸せな充実感が常に僕自身を肯定してくれる世界。

僕は、僕がいなかったはずの世界の隅っこにちょっとだけお邪魔をさせていただいて、ひとりきりの世界観としては、好きなことをやらせていただいている感覚です。やりたいことは明日に回さない。明日は約束されていないからです。

結果にこだわるってことが僕にとってほとんど重要じゃなくなりました。結果が出る前に死んでも後悔のないことにしか興味がなくなってしまったからです。

つまり見返りなんて、どうでもよくなってしまったんです。

見返りについて考えていないなんて口にすると、怪しい人だと思われてしまうくらい、いまの社会は見返りを求めないことが「非常識」になってしまっています。「見返りは要らないなんて口ではそう言ってるけど、絶対にあるはずだから怪しい」ってなっちゃうんでしょうね。わかります。だから僕は、社会という合意ルールのもとできちんと、相手様が納得してくれるストーリーを設定します。たとえそれが本意じゃなくても、相手がそれをもって安心したいのならば、それは必要だということだと思っています。

こうしてアップデートされた死生観とともに生きてみて起きた変化の中でいちばん大きなものは、実は、「結果」です。

かつて、いくら追い求めてもたどり着けなかった「目標」。その達成のために必要だったことは「諦念」でした、ということです。脱力して、結果に期待せずに、ただ直観で、いま現在の瞬間の選択だけ行う。努力しているとか修行しているとかいう感覚は皆無です。

でも、そうしないと次の地平は開けてこないんだということを学びました。

引退を覚悟し、そのすべてを引き受けて決意を顕にすることは、簡単なことではありません。しかしその崖を飛び降りた者にしか得られないものがあることだけは確かです。

引退のあとに残るのは荒野ではありません。無限に広がる可能性と、諦めたと思い込んでいたことが現実化する世界です。その源泉は、より広い視野の獲得だと思います。

春は毎年やってきますが、同じ春は二度と来ないのですね。いま自宅の二階の窓から春を眺めておりますが、今日もまた「初めて」の戸惑いとワクワクを感じ取っています。

コメント