振り返ればアレがいる

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このブログを始めてから10年になる。久しぶりに一部を読み返してみた。
サーバの移行だとかデータの移行だとかソフトウェアのアップグレードだとかで失われてしまったデータも少なからずあるが、自分が過去に何を考え、悩み、行動してきたのかを思い出すのには十分なだけの記事が残っている。
中には今読んだら恥ずかしい内容もあるけど、自分ってこんな事考えていたのかと感心(?)してしまう内容もある。
だから敢えていま、過去の記事を隠してしまおうとは思わないし、改竄しようとも思わない。
あるがままに、そこに置いておく。

血がでるほど歯を食いしばっている時期の記事を読み返すと、当時の苦悩が鮮明に思い出される。
まだ見えていなかった何かに対して感じていた恐怖も、今となっては「若かった、何も知らなかった」と微笑ましく回想できる。
当時の記事は、間違いなく同じような道をいま歩んでいる、歯を食いしばっている若者たちにとって力になる言葉に溢れている。

いろんなものを乗り越えてきたからこそ現在の自分があるのだが、その過去をこうして振り返り、反省している。
今の自分はちょっとだけ、いやかなり堕落している。
人間性はそう簡単に変わるものではないから、引き返せないレベルにまで堕ちているわけではない。
むしろ、過去によって積み上げられてきた現在の自分は、期待以上の成果を叩き出してきたし、いまもそれは毎日の仕事に反映されている。
足りない部分に気付かされるほうが、やっぱり多いけど。
年を重ねるごとに、自分の可能性を限定してしまうのは、「年」を意識してしまう自分自身であることを痛感する。
20代だって30代だって40代だって、90代だって、遅すぎるということはない。
ただ、人生全体の設計図をどのようにうまく描くことが出来るかということでしかない。
不可能と言い切る人は、可能にするためのフローを描くことができないだけだ。
可能にするためのフローが描けない理由は、経験と考察が不足しているだけだ。
考えることで人は前進するための道筋を立てられる。
そして実際にその道筋を歩いてこそ、人は前進する。
変化に慣れていない人は、テンプレート化された設計図の山をいくら漁ってみても答えがないからといって、「不可能」のレッテルを貼ってしまう。
他人事だから否定する人が少ない。同じ穴の狢は肯定する。
肯定も否定もしない人から意見を引き出すしかない。それができなければ、自分で考えろ。

最近の自分が、ひとつの型にはまりかけていることをひどく実感した。
この危機感こそが、次なる行動へのエネルギー源となる。
型にはまることは楽だ。
型にはまらない行動をすることは大変だ。型にはまらない考えを起こすには「きっかけ」が必要だ。
その「きっかけ」がない生活に嵌り込んだら、抜け出すのは無理かもしれない。
誰だってリスクは怖いし新しいことは不安だし、ただしいかどうか分からない行動は怖い。でもそれをあえてやってみたら突き抜けることができる。
突き抜けられなくても、今いる場所からは少なくとも抜け出すことができる。
安定にしがみつく心がこうした行動に対する意欲を阻害する。
でもよく考えてみよう。答えはひとりでも出せるはず。

変化のための行動、前進のための行動をとっているように見せかけて実はとっていない人も結構いる。
違いは何か?
目標の有無。

目標は何だっていいけど、自己完結型だと途中で終わる。

こうして考えて行くと、結局行き着くところは命の大切さと、自分のかわいさということになる。
死を恐れる人間には、何も生み出せないのだ。

結論。最近、死を恐れるようになってきてしまった自分を認識している。しかも何の根拠もなく。
危うかった。今日これをリセットする機会が得られたのは非常によかった。
機会を与えてくれたのが、自分が過去に書き綴った駄文だったとは、少しはこのブログを継続してきた意味があったのかなとも思う。

たぶん何を書いているのかわからないと思うが、この記事はまた、未来の自分に向けてマイルストーンとして書いているものだ。

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