学びの本質

体験の伴わない知識は学習とは言いませんよという話をしようと思います。

例えば『猫は耳の後ろを撫でると気持ちよさそうにする』とか『自転車は前に漕ぐと進み、後ろに漕ぐと空回りする』とか『過酸化水素水と二酸化マンガンを混ぜると水と酸素ができる』とか『味噌汁は沸騰させるとまずくなる』とか、お題はなんでもいいんですが、このような知識をただ知識として持っているのと、体験的に腑に落ちているのとは、実は全く違います。

腑に落ちる学びこそが、本当の学びです。
これが大切な理由は、体験的に腑に落ちた学びは、創造力に繋がるからです。なぜなら、知識だけの情報は脳内に記憶していても、抽象化できていないために応用がきかないからです。

それではなぜ、我々は学校で知識をつけるだけの学びをしているのか?
それは、入試があるからです。
入試では知識の量と内容(あえて「質」とは書きません)が試されます。現代の入試はそこを突き詰めてしまっていますから、学校で腑に落ちる学びを得られる機会はどんどん減っている。

それでは、知識だけつけることには意味はないのかというと、そういうことではありません。知識があることで、これまで見えなかったもの、つまり概念化していないために脳が認識すらできていなかった外部からの刺激に「気付く」ことができるきっかけになります。抽象化された体系が広く深くなればなるほど、外界から得られる情報に「気付く」範囲が広がります。
これは俗に言う、アンテナを立てている状態です。
ですので、学習のきっかけとしての知識は有り難いものですが、ここにキケンな罠が2つあります。

まずひとつは、知識だけで終わってしまっているものは、試験に合格する以外にはなんの役にも立たないということ。

もうひとつは、外部から受動的に与えられた知識をきっかけに学習することに慣れてしまい、自ら知識や体験を得て思考を広げる癖がつきにくくなることです。

たとえば『自転車は前に漕ぐと進み、後ろに漕ぐと空回りする』と言う知識があると、『自転車を後ろ向きに漕ぐとどうなりますか?』と言う問題の正解を答えることが出来ます。しかし、『なぜ後ろ向きに漕ぐと進まないのだろう?』という疑問を自ら持つところに繋がらない。
それを知るためにはどうしますか?
ググればいいじゃない、って思いますか?
人に聞けばいいと思いますか?
自転車の本を買えばいいと思いますか?
それこそ、思考停止の罠ですよ。
自転車のペダルを後ろ向きに回すと空回りする原理を理解するために最も適しているのは、本物の自転車を分解してみることです。
言葉も何も介さず、現物で理解できます。

調べたほうが早いじゃない、って思うかもしれませんが、体感的に得たものは、自分の内にある体系の拡張に役立ちますが、知識に知識を積み重ねても、抽象化はできません。

『なるほどこういう仕組みか、これって◯◯と似ているな』とか、『こういう仕組みなら、ここがこうなってたらもっと効率的なのではないか?』とか、『自転車のコンポーネントがこういう仕組みなら、◯◯にも似たような仕組みが適用できるな』とか、『こんなに小さなパーツで自分の脚力を支えられるのか!』とか。

頭で知識を持つだけでは超えられない壁があります。この知識とは、難しいことをたくさん知ってるとか、多くの公式の使い方がわかって難しい数学の問題の答えが出せるとか、そういうことに繋がるのですが、誰も証明できてない問題に向き合うとか、物事を発明するとか、新たな視点で発見をするとか、そうした応用に繋がらないのです。

自分が有名校に入るため、あるいは自分の子を有名校に入れるために、学びを履き違えてる人は、今ここで思い直すきっかけになれば幸いです。知識を膨らませる学びでは、いずれ応用が利かなくなります。
応用を知らない『アタマがいい』つまり『高学歴』人は、何処かで限界にぶつかります。社会は応用を考えなくても与えられたことだけやっていれば済むほどイージーゲームでもないし、そんなイージーゲームだらけの起伏のない人生のどこが面白いのかなと個人的には思うわけです。

『地頭』の良さを身につけるのはセンスとか生まれつきとかそういうところではなくて、学びの姿勢であり、楽しさを知ること、つまり知識と体系の接続によって『アハ!効果』を得て、腑に落ちることで次の段階に発展させていくことに他なりません。