認知と運と成功と観察と定義

人の脳についてはまだ分かっていないことのほうがずっと多くて、たとえ器質的に(外科的に)脳のつくりや、そこを流れる信号や、それを司るメカニズムがだんだんと明らかになってきても、それは脳を理解したというにはほど遠い。

たとえばLANケーブルを流れる信号のパターンやルーターやスイッチの動作パターンが解明できても、その中を流れる信号の本当の意味は理解できないようなものだ。たとえその信号の0と1を判読できるようになったとしても、それはただの信号でしかないし、信号の読み方が判明できたところでそれはただのTCP/IPのパケットでしかないし、さらにパケットの構造が解明したとしてもそれはさらに高いレイヤーのプロトコル、たとえばhttpsかもしれない。それは暗号化されているし、それがさらに解読できたとしても、それが意味するものは、人が作りしネットワークならまだしも、人の脳内を流れている信号だから、膨大な「不可思議」の前に平伏するしかないのが現状だ。

さらに言えば、現在いわゆる常識的な脳の活動と思われている一般的な解釈すら正しいと断言できる者はいない。
人の記憶はどのように記録されているのか。そもそも記録という概念で合っているのか。
人はコンピュータや図書館のように情報を保管しているわけではない。それがどこに保管されているのかもわからないし、我々が感覚として認知している「五感」以外の認知方法や外部との通信が存在しないという証拠もどこにもない。
むしろすべての可能性や経験則を加味してみれば、そのような不可思議な機能のようなものが脳に備わっていないと言い切れる可能性のほうが低いという世界が広がっているように思う。

ひとつの常識が、多くの理解をさまたげる原因となり得る。
認知とはいったい何なのか。
この世界と人は簡単に口にするが、この世界とはいったいどのようなものなのか。
我々はあまりにも、限定されている。

最近の研究で、獲得形質が遺伝することが証明された。これは、今までわたしたちが教科書で学んできた「記憶」や「遺伝」の仕組みが間違っていた、あるいは不備があったということを意味している。わたしたちは常に、常識の書き換えに挑戦していく必要性に迫られる。常識にとらわれたら最後、誤解したまま生きていくことになるからだ。
獲得形質とは、生まれたあとに経験や記憶によって獲得する特性のことだ。これまではそうしたものはすべて、遺伝しないとされてきた。それが遺伝するということは、わたしたちは何か壮大な勘違いをしている可能性があることを示唆している。

実験によって証明することに成功したからといってそれが真実とは限らない。
暗闇で動物に触れて、足が4本あって尻尾があることを確認したからといってそれが猫であるという証明にはならない。
4本足の動物である可能性があるというだけのことだ。動物ですらない可能性もある。
もしもそれが、毛むくじゃらの皮をかぶったロボットだったら?

わたしたちは常に生きるゆえに、脳は生命活動にとって重要な判断基準を明るみにする強い傾向をもつ。
見たもの、聞こえた音、匂い、味などから、それらが危険なのかそうでないのかを判断する原始的な本能がある。
そうした本能にただ逆らうことはむずかしい。
空が青く見えるからといって、宇宙が青いとは限らないのだが、それを信じるにはさまざまな結果を見る必要がある。
そしてわたしたちはしばしば、観測によって観測対象に影響を及ぼすという量子力学的な常識を忘れてしまう。

この世には、にわかには信じがたいことがたくさんあふれている。
人間が勝手につくりだしたルールや常識の中で生きることは、一見すると最良かもしれない。しかしそこには、得られるものよりもまだ得られないもののほうがいいということを念頭に置く必要があるという前提が存在する。

成功というものは本来、当然のように人生の瞬間瞬間にかかわるものであるように思う。
次の瞬間に生きていたら、生物としてのわたしは、生きることに成功している。
そうでなければ死んでいる。
しかしそこには無限に分岐する平行世界がある。

宇宙、素粒子、物質を構成するものを明らかにする超弦理論を感覚的に理解すれば、カラビ・ヤウ多様体の特性そのものが現宇宙の物理特性を規定していることや、その宇宙というもののかかわりあいが、語弊を恐れずに言えば単子ごとに存在しており、その特性の違いをキャラクターの違いとして認識することや、10次元のうち余分な6次元がコンパクト化される(ように見える)ことの説明が、経験則的にはるか古代からなされてきたことがわかる。それを理論的に説明しようとすれば、アインシュタインやボーズが抜け出せなかったパラドックスと同じドグマに陥ることはなんとなく仮説として成り立つように思えるし、いまのところそれを打ち破るアイデアはない。
フラクタルとして多様体のもつ擬似的な高次元的境界面をなぞれば、すべてがさらに高次元でつながり、表裏一体であるということが想定可能だ。

ここにきて人は、すべての事象において科学的説明に固執できない理由を編み出してしまったともいえる。
さらにいえば粒子というものが我々の認知とはおおよそかけ離れた存在であるということだ。3次元的に粒子のように振る舞うエネルギーとはどのようなものなのか、という逆転の発想でイメージをしたほうが、粒子ありきで想定するよりも概念に拡がりをもたせやすい。ひもの振動を3次元的ライフサイクルで捉えていると、理解を越えてしまう。だからといって数学的に説明できるようになっても、それを理解と呼ぶには程遠い。数学はここでは対象の成否を測る道具ではなく、可能性を示唆したりしなかったりするための共通言語にしかなり得ないし、それをさらにメタ化して読み解くと輪郭が見えてくる。

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