Beyond the orbit

教義を信じる人は、教義を信じているとは思っていない。ドグマであるがゆえのドグマ。その思い込みに自ら気付くためには綿密な観察をもって繊細に内観と客観視を重ねる必要がある。瞑想やマインドフルネスは有効だが、それが意味するものを理解せずにただ知識として利用すれば必ず反動がある。そんなことにすら気が付かないままに心を亡くした状態で自分の座標軸を動かすことを、破滅的行動と呼ぶ。

完全にスポイルされた魂に宿るものは邪念しかない。頭で考えることの影響について判断できるのは意思であるが意思はそれが無意識下にあるものであるがゆえに意識が司る論理回路では答えは出せない。
ものごとの論理的思考においてはまず題材が必要となるが、その題材が直感から得られないとき人は外部からものごとを参照しようとする傾向をもつ。何も考えないことは大いなる苦痛を伴うからだ。

この世に正しい・正しくないは存在しない。故に全体管理の夢想から得られるものは結果を正当化するための働きかけでしかなく、それが集団化することによって右傾化・左傾化は避けられず、多くの歴史が語るようにとんでもないバイアス強度をもった組織が発生する結果につながる。これを事前に回避するためには、全体管理の正当化に対して真っ向から異を唱える構成要素の反論が必須となるが、その声すら圧力のもとに消える。それだけならまだしも、メビウスの輪から飛び出せない思考回路を植え付けられてしまったが最後、組織社会の正当化が個人レベルの存在の正当化という流れになってしまうのだ。しかしひとたび正しいか否かという価値基準から飛び出してみれば、そこには自分が本当にそれをやりたいのか、人生の限られた時間をそれに費やすことを自分に対して認め得るのか否かという問いにつながる。その問いこそが、論理を超越した感性から生まれてくるものであり、現代日本社会においてないがしろにされつつある感情という生々しくて泥臭いところから生まれてくるものだということを認めなければ未来は凄惨になる。

わたしはこの課題に向き合いたいと思い実際に長年向き合ってきた。自己承認がなされない存在がいかにドグマにとらわれてしまうのか。平等に愛する対象が散りばめられているわたしの世界において、愛するものを愛し、時という貴重な感動の要素を共有し、さらには愛を注いできた。そんな情熱の対象たちが自由に生きることを選択したいがあまりに、不自由を選択してしまったり、自分を傷つけたくないがばかりに自分を傷つけてしまう選択をしてしまったり、恐ろしいと思いこんでいるものから距離をとるために本当に恐ろしい状況に自分を追い込んでしまったりしてくるのを、散々みせつけられてきた。
どうにかしたくてもどうにもならない。全力でやってもうまくいかない。わたしはそんなとき、とても悲しい気持ちになる。
人の純粋さが嘘によって汚されていくのをただ傍観するしかないのをわたしの魂は許せないから、わたしは全力でそれに立ち向かう。けれども本人がその気になる勇気を出して、それを維持しつづける安心できる理由を本気で探してくれない限り、わたしに出来ることは限られてしまう。応援したり、安心してもらったり、向き合うために厳しさを突きつけたり。
人になにかを教えるというのは幻想なのだと思う。気付くきっかけを与えられるほどの神々しさはまだわたしには備わっていないようだ。わたしは血がにじむほど唇を噛む。

さらに恐ろしいのは、そうした迷い人たちをあえて騙し略取しようとする薄汚い豚どもがこの国には溢れかえっているということだ。救おうとしない最善とか、無視する最善とか、そういう選択肢は彼らにはない。愛すべき魂たちが汚れたことをいいことに、それを喰らうのだ。まさに餓鬼としか言いようがない。大切な人たちが喰い散らかされていくのをわたしは何度も目にしてきた。どうあがいても、どうにもならなかったとき、自分の力不足を嘆くしかない。わたしはそうして、多くの気持ちを踏みにじられ、愛する人たちが汚されていったり自らを汚していくことに対して無力感を味わうばかりで、涙を流してきた。

しかしそこであえて客観視を重ねていくことで、わたしはさらに強い力を得てきた。悲しみを受け入れ、執着を手放し、より広い愛情を知ることによってしかこの苦しみや悲しみから抜け出す方法はないと悟ったのだ。この悟りは繰り返し、繰り返し、螺旋のように極限の高さまでわたしを追い上げていく。わたしは意図するしないにかかわらず、螺旋階段をのぼり続ける。もうひとつのオプションは飛び降りることしかないと知っているからだ。

わたしは、薄汚いやりかたでわたしの愛するものたちを喰い荒らしてきたものを決して許容しない。餓鬼は責任転嫁をする。転嫁先は、罪を属人化させることを善しとしない、純粋な人たちだ。なぜなら彼らは反撃をしないからだ。それをいいことにどんどん責任転嫁を繰り返し、自らの狭い認識の範疇でのみ自己正当化をしてご満悦なのだ。

悲しい思いをしないためには人と関わらないことだと思いたくなる気持ちもよくわかるのだ。
しかしそれは、そこにある悲しみを見て見ぬふりをすることと同じだ。
わたしは、最後の瞬間まで、できることをする。それがたとえ、歯を食いしばってでもただ見守るしかないとしても。
時と経験が解決してくれることを信じるしかないとしても。

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