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2017/Feb/04 Facebook

自らが歩んできたもの、例えばITの世界の歴史に学ぶということの意味がわかってくると、如何に経験の浅い若い人たちの想像力を掻き立て、憶測や思い込みを排除する手助けをし、自分のフォーカスを理解してもらい、そこまで到達して初めてなお、その共感を絶対真理としてではなく、あくまでオッさんの一意見として捉えていただき、若者たちが考えるためのエサにしてもらえるだろうかということが課題になってくる。つまり僕の経験なんて無限大にある世の中の経験の一側面でしかないわけなので、そんなものはエベレスト登頂のために足がかりにした無数のステップの一つにして、さらなる飛躍をしてほしいという願いです。

そして最高の伝え方はやはり言葉ではなく、背中を見せる事だというところに帰着する。これだけコミュニケーション技術が発達したと言われているけれど、根本のところは何も進化していない。

態度で伝えることの追求および永続化へのチャレンジ、あるいはスナップショット。これを人は芸術と呼ぶのだなと思います。

どんなにコミュニケーションツールが発達しても、ここは絶対に覆らない。覆ったとき、我々は我々は我々のことを人間と呼べなくなる。

そしてそれでもさらに、考えることを伝える為の試行錯誤を積み重ねて洗練化してゆく。例えばこの文章だってそうなのだ。諦めるとか諦めないとかじゃなくて、Just do it。なぜなら、それが自分のやりたいことだから。

人はものを書くために考えるのではない。普段から頭の中、心の中にあるものを言語化するために考える。こんな長文を度々書く僕はよく誤解されるけど、こうしたことを難しく考えたりなんてしてない。

書き始めるとき、頭の中に言葉はない。

スマホ、PC、ノートとペンを手にすると、頭の中で色んな言語化されていない宝石のような思念の塊のようなものが渦巻いてて、そこに手を伸ばして色んな角度からその意思を見て、ほほう……と思いながら、ひとまず書き出す。すると続きの文章はひとりでに走り出す。

僕は自分で書いた文章をほとんど校正しませんが、読み返してみるとまるで他人が書いた文章のように、「おおーなるほど」とか、「ここは少し違うんじゃねえの?」とか考えながら楽しむことができるのです。

自分で書いた文章から学ぶという、非常におかしな習慣を持っています。

なぜこんな話をしたかというと、自分の経験をもとに自分のものだと信じて疑わないイデオロギーや思考は、正しいとは限らないということです。

それどころかまるっきり反対の思い込みをしていることも多いのです。

こうした活動を自分の中で完結させるのは、自分のことだけでいいのですが、世の中に与えられた課題を複眼的に観察するためには、他人の力、若者からお年寄りまで多様性をもった意見が必要です。

私が長文を晒す理由はいくつかありますが、新しい視点の導入によって、ただでさえアホな自分の頭を腐らせないことも理由のひとつです。

これを繰り返してゆくと、冒頭の話題、経験の伝達というものについてより深い理解を得ることができます。