毎日のごはん

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ご飯は、誰のために作るのか。

突き詰めるとそれは、自分のため。自分の肉体を維持するため。それが直接よろこびになるように出来ている。自分で責任を取れるのは、自分の身体だけ。

世の中の事業家に問いたい。

自分自身が毎日健康的な生き方、できてるか。できてない人間に、健康を語る資格ない。僕にもなかった。

自分の体すらよろこびに満たせなくて、どうして他人にそんなもの提供できようか。

規則正しい生活。朝起きて命あるよろこびに浸り、食べ物のひとくちひとくち、我が身に分け与えられた食物と言う名のいのちの尊さを自分の身体に取り込む儀式を感じ、なんの見返りも求めずに自他の境界なく1日を楽しく自由に動き回り、自分や他人を傷つけたりせず、日が落ちたら眠る。

僕は30代の終わりまで長い間、他人のために自分を犠牲にする生き方をしてきてしまったことを反省し、それをやめた。

やめたきっかけは、今のパートナーだ。

心から愛する人の未来を思った時、自分の体すら労らなければ成せないことがたくさんある。

死んだら元も子もない。ところが死を恐れたら何も変わらない。その葛藤の中、毎日自分の中にいる天使と悪魔が闘ってきた。

『もういいじゃないか。自分と自分の大切な人だけ幸せになれれば』

『自分の周りだけよければそれでいいのか?そんな差別的な考えがこの世の中に残ったまま死んで、安心して愛する者をこの世に残せるか?』

『もう俺の心も体も限界だ。なんでこんなに傷つけられ誤解されながら走り続けようとする?走ってることすら理解してもらえてないぞ』

『ここで挫けてどうする。苦しみを感じているなら前に進んでいる証拠。苦しいのは自分自身がまだ未熟だからだ。物事の捉え方を変える必要性に目覚めてない自分の弱さだ』

こんな自問自答をずっとずっと深く掘り下げてきました。

今理解しているのは、自分の信念を成すために他人の理解を得るのは不可能。それがとくに、まだこの世にない概念や価値観の場合は、理解されないどころか非常に拒否・否定・排除されます。

天動説が常識の時代に、地動説を唱えた人たちと同じだ。

とかいなか食堂は、僕が筋の通らないことをしてるくらいに思ってるのだろう。今までも人の話を聞かない方々に期待はしてないし、今更また説明するために自分を傷つける必要はない。

経営やチームプレイには、豊富な経験が必要です。リーダーシップです。社会問題の複合的な相互作用を冷静に客観視して事実だけを積み重ねるには、相応の訓練が必要です。意見の偏ってしまった組織、公平性の失われた組織、そのどちらにも用はない。

大きな学びを得た。

これからの僕の活動にとって大切なこと。

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