Memory

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記憶の書き換えを訂正するために必要なことは、記憶の再生を繰り返すことではない。記憶が繰り返して再生されることにより、視点と前提条件が固着する傾向がある。

大事なことは忘れたと思っていても残っている。おそらく人は、残す記憶となくす記憶を意識下でコントロールすることができない。海馬が何を長期記憶として選択するのかその機序は科学的にも明らかになっていないのだ。私たちは何かを意図的に学習したいときですら、何を覚えて何を忘れるかを選択することはできない。訓練によって多少の改善を認めることはできるが、完璧とは程遠い。

サヴァン症候群の人がそれを簡単にやってのける。彼らは何故それができるのかというと、右脳と左脳をつなぐ脳梁が欠如し断絶しているからだ。

人の右脳と左脳は明らかに異なる機能を有している。表裏一体という言葉が相応しい。

わたしたち人間は凡ゆる生化学的な根拠による発達の恩恵とともにその弊害を兼ね備える。では恩恵と弊害を分け隔てるものは何かというと、事実としては存在しない。個人の持つバイアスという名の偏見がそれを生み出しているに過ぎない。

だからこそ私は、メリット・デメリットという捉え方や、良い・悪いという分類を極度に嫌ってきた。

一方で、好き・嫌いは主観なので理解できる。

世の中にある事象はすべて事象でしかなく、メリットと捉えるもデメリットと捉えるのも自由である。それが何故、特定の人物(意識)においてデメリットにしか捉えられなくなるのかというと、脳内にその事実を有利に捉えさせる回路がないからだ。何故ないのかといえば、シナプスの結合に多様性が欠如または不足しているからだ。

それではどうしたら多様化して様々な捉え方ができる柔軟な思考回路が作り出せるのかというと、あくまで生化学的な脳を有しているわたしたちにとって知識は役に立たない。知識は記憶として脳内に蓄積させることが可能だが、これを必要な時に取り出すための回路がなければただの無駄な記憶なのだ。データが存在してもそのデータを有効活用できなければ無駄な知識である。

知識自体の利用価値を最大化するためには、その知識をいつどのような場面でどう活用するかというアウトプット回路につなげる必要がある。

そのためにまず必要なのが過去の経験を汎化できるだけの幅広い経験。これは自分の脳により正確な統計を導くために必須である。さらに、どんなに統計的に高い確率を出せたとしても100%はあり得ないわけだから、リスクを評価できなければならない。リスクを評価する上で必要な情報は、リスクの明確化だけではない。そのリスクに対して行動する・しないを決定するためには、閾値が必要だ。

その閾値をどこに設定するかを決定するためには、また統計に頼るようだと、永遠のループから抜け出せなくなる。

このループを何回繰り返すことで気がついて抜け出すロジックを編み出せるのかが、行動力という値に現れる。

この際人間の脳は、リスクを恐怖という感覚で表す。これは形而下の論理的な計算ではコントロールできない。唯一その閾値を帰る手段はは妖精のある経験とその経験に対する自己分析を重ねていくことだけだ。

そして人は恐怖を克服して行動するのだ。

話を冒頭の記憶再生に戻すと、記憶再生のたびにその回路が強化されることを知っておいて損はない。そこから脱するためにはパラダイムシフトと呼ばれる、視点を変えて同じ記憶を見つめなおすという作業が必要だ。これは高度な試みであると言われているが、コツさえつかめば至極簡単だ。

脳内のプロセスはすべて抽象化・汎化されやすい。そのようにできているからだ。

なので創造性と行動力を兼ね備えるためには、物事を決めつけないやり方を必要とする。関数に代入された値はいつでも書き換え可能なように脳内でロジックを組んでおくということだ。そのロジックに忠実であれば人は必ず変化し続ける。

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